曽我十郎祐成・五郎時致兄弟は河津祐泰の子で、祐泰は伊藤祐親の嫡子であった。伊東祐親は、藤原南家の伊東氏の出であり、北条時政に娘を娶らせ、相模の三浦義澄にも娘を娶らせ、伊豆において豪族として大きな勢力を持っていた。祐親は、富士野で討たれた工藤祐経の所領を奪うとともに、祐経の妻の娘万却御前を離縁させて土肥遠平に嫁がせている。
平治元年(1159)の平治の乱で源義朝が敗れ、十四歳の頼朝が伊豆に配流され、監視役に任ぜられたのが伊東祐親であった。頼朝の伊豆での流人時代を記した資料はほとんどないが、『曽我物語』に祐親が大番役として上洛している間に三女の八重姫が頼朝と通じ、千鶴丸を産んだと記される。祐親が大番役から下向した際にこの事を知り、平家の怒りを怖れて千鶴丸を松河に沈めて殺害した。そして頼をも殺害を試みるが、祐親の次男・祐清が、妻が頼朝の乳母で庇護する比企尼の娘であった事から頼朝と親交があり、それを知らせて頼朝は、伊豆神社に逃げ込み、難を逃れる。その一月後に河津祐泰は工藤祐経の郎党の矢により、討たれた。これは祐経の仕業であったことが『吾妻鏡』に記されている。その後頼朝は、北条館に逃げ込み政子を娶ることになり、『吾妻鏡』では治承四年(1180)十月九日条と養和二年(1182)条に安元元年(1175)九月に祐親の次男・祐清が頼朝に告げて走湯権現に逃げた事が記される。
何故頼朝は、北条時政を頼ったのか疑問が残され、保立道久氏は真名本『曽我物語』三巻の冒頭の解釈に誤りがあるとした。従来、源頼朝が北条政子との関係を持ち始めた時期と解釈されて来た同書記載の安元二年(1176)三月という年次は頼朝と政子が関係を持ち大姫が誕生した時期であると指摘している。そのため頼朝と政子の関係は安元元年の初夏には関係を持ち始めていたことになり、伊藤祐親が京から戻る直前としている。保立氏は、安元元年九月の頃、伊藤祐親が千鶴丸を殺害し頼朝おも殺害しようとした事は、平家との関係を怖れたのではなく、源家の地を継ぐ頼朝を庇護し、娘との関係も認めており、その厚遇に反し、北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「後妻打ち:うわなりうち」であったと事で殺害を試んだと。また保立氏は、頼朝が祐親に千鶴丸を殺害された事から、祐親に恨みを持つ工藤祐経を唆して伊藤祐親・祐泰親子を奥野の狩場で襲撃させたのではないかと提唱している。
(写真:ウィキペディアより引用 富士川、伊藤祐親像)
伊藤祐親は、治承四年(1180)八月に源頼朝が挙兵すると平家方として大庭景親と共に頼朝を石橋山の合戦で追い込んだ。しかし、安房国に捕り逃し、頼朝は安房から勢力を整えて坂東を制し、富士川の戦いで勝利する。その後、平家軍は分断され、伊藤祐親は平維盛の味方に付くために、伊豆国鯉名泊(こいなとまり)に船を浮かべ海上に出たところ天野藤内遠影がこれを見つけて祐親を生け捕りにした。大庭景親は富士川で降伏し、捕らえられて三日後に梟首されている。しかし伊東祐親は、娘婿の三浦義澄は頼朝の御前に参上し祐親の身柄を預けてほしいと申し上げ、罪名が決まるまで義澄に預けられた。
『吾妻鏡』寿永元年(1182)二月十四日条、「伊東次郎祐親法師は去々年の治承四年以降、召して三浦介義澄に預け入れられていた。ところが御台所(政子)がご懐妊という噂があったので、義澄は機会を得て、何度もご機嫌をうかがったところ、頼朝が御前に召して直接に恩赦すると仰った。義澄はこのことを伊藤祐親に伝え、祐親は参上するとのことを申したので、義澄が御所で待っていたところ、老中が走ってきて。「禅門(伊藤祐親)は今(頼朝の」恩言を聞き、改めて以前の行いを恥じると言い、すぐに自害を企てました。ただいま、僅か一瞬の間のことでした。)といった。義澄は走って行ったが死体はすでに片付けられていたという」。
同月十五日条、「三浦義澄が御所の門前に参り、堀藤次親家を通じて祐親法師が自殺したことを申し入れた。武衛(源頼朝)は嘆きつつも感動された。そこで祐親の子である伊藤九朗祐清を召し、「父の入道はその罪科が重いとはいえ、それでも許そうと思っていたところ、自殺してしまった。「臍(ほぞ)を嚙むに益無し。」と言われるように、後悔しても致し方なく、ましてはお前には功労がある。徳に賞されるであろう」と仰った。これに祐清は「父はすでに亡く、後の栄誉は無意味に等しきものです。早くお暇をいただきたい。」と申した。そこで頼朝は必ずも(祐清を)誅殺された。世間ではこれを美談としない人はいなかった。頼朝が伊豆にいらしゃった時、去る安元元年九月の頃、祐親法師は頼朝を殺そうとした。祐清はこのことを聞き、密かに告げてきたので頼朝は走湯山へお逃げになった。その功を忘れずにおられたが(祐清は孝行の志が厚く)こうしたことになったという」。建久四年六月十一日条では、祐清が平氏に加わり、北陸道合戦の時に討ち取られたと記されている。『曽我物語』、『吾妻鏡』の相違点を見ていくと多くの疑問点が上げられ、祐清は全ての事を知っていた行動ととらえることが出来、興味深い。
『吾妻鏡』建久四年(1193)五月二十九日条で、捕縛された曽我五郎時致が頼朝の御前に召し出され狩野介宗茂、新開荒次郎実重を通じて夜討ちの宿意を尋問したところ、時致が怒って申した。
「祖父伊藤祐親法師が殺害された後、子孫が零落したので、側近くに侍ることは許されないとはいえ、最後の所存を申すについては、決して汝らを通じて伝えるものではない。確かに直接に言上したい。早く退け」。
頼朝は思うところがあり直接聞く。時致は、
「工藤祐経を討つことは、父の死骸の恥を雪(すす)ぐためであり、ついに私の鬱憤の志を披露できました。兄祐成は九歳から、時致は七歳の年から以降、常に復讐の思いを抱き、片時も忘れたことはありません。そしてついに仇討を果たしました。次に御前に参りましたことについては、祐経がただ御寵愛を受けていたものというだけではなく、祖父祐親が御前の御勘気を受けておりました。あれこれと恨みがありましたので、拝謁を遂げたうえで自殺するためでした」。
聞いた者はみな舌を鳴らし、感嘆を現した。頼朝は時致が、とりわけ勇者であるので許すべきかと、内々にためらうが、工藤祐親の子息・犬吠丸が泣いて訴え申したので時致の身柄を犬房丸に預け。時致の年は二十歳であり、犬房丸は鎮西忠太と号する男にそのまま梟首させたという。また、同月三十日に頼朝の雑色高三郎高綱が曽我兄弟の狼藉を政子に知らせる飛脚として富士野から鎌倉に到着した。また祐成・時致兄弟は、最後に書状などを母に送っており、頼朝の下に召し出された。幼い時から父(河津祐泰)の敵を討ちたいと思っていた内容が全て書き載せられており、頼朝は御感涙をぬぐいに長らく御覧になり、長く文庫に納め置くようにしたとされる。
同年六月一日、曽我十郎祐成の妾で虎と号する大磯の遊女が召し出されたが、口上によれば罪は無いので赦免された。この虎が『曽我物語』を口承・伝承し、後に瞽女(ごぜ)が語る物語を未詳である作者が編纂したとされる。物語の中で虎は、祐成の母・萬江御前の下に出向き出家し、「禅修比丘尼(びくに)」と名乗った。十九歳であったという。そして、工藤祐経と共に殺された吉備津宮の王藤内の妻と巡り合い参籠の旅を共に行った。巡り合う女性により物語られ、仏教の説話、「唱導の物語」として形取られている。またこの日、工藤祐経の妻子が親族についても祐成に同意した罪に問うべきであると訴え申し出たが、祐成らに同意したという証拠はなく、許されたという。
同七日、頼朝は駿河国から鎌倉に戻る途中に曽我太郎祐信がお供に祇候していたところ、道の途中でお暇を給わった上に、曽我荘の年貢も免除され、曽我祐成・時致兄弟の菩提を弔うよう命じられた。翌月の七月二日、武蔵守平賀義信が律師と号する養子の僧を召し進めた。越後の久我山にいた曽我十郎祐成の弟であり昨夜鎌倉に参着し、今日、梟首されると聞き、甘縄の辺りで念仏読経を終え自殺した。頼朝は大いに悔やみ嘆かれ、もとより死罪にしようとする気持ちはなく、ただ兄に同意していたのか否かを召して尋問しようされるためでだけであったという。この曽我兄弟の仇討について、多くの説が唱えられている。この仇討は頼朝を含めた暗殺ともする政変説があり、この後、頼朝にとって後継の頼家を擁立し、幕府を確固たるものとするため転換期であった事は言うまでもなく、有力御家人の粛清へと進んでゆく。 ―続く