坂東武士と鎌倉幕府 八十二、十三人の合議制 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『愚管抄』第六巻、「建久十年(1998)正月、関東の将軍は病気になって思わしくないという噂がほのかに聞こえてきたと思う間もなく、正月十一日には出家し、十三日に亡くなったという知らせが、十五、六日にはあちらこちらで語られるようになった。人々はそれを聞いて夢かうつつかと思うばかりであった。頼朝は「今年は必ず静かに上洛して世の中のことをあれこれ処理したいと思っていました。万事は心に思ってもままにならない物です」等と九条殿に申し伝えさせたのである。」頼朝は、志半ばで急死し、後継者としての嫡子・頼家の確立は不十分であった。

 

 この噂が広まる直後に朝廷は、同月二十日に除目を行い、(六条)頼実が昨年の十一月の政変で籠居している内大臣九条良経(兼実の次男)を超えて右大臣に、そして右大将を辞任させ、土御門(源)道親は、右大将の地位に着いた。道親は、自身の昇進を幕府の反発から逃れるために、源頼朝嫡子・頼家を左近衛中将に昇進させようと目論んだ。頼朝の死が判明すれば、頼家昇進は延引せざるを得なく、臨時除目を行い、翌日には頼朝の死に対し弔意を表すため閉門している。藤原定家『明月記』正治元年正月二十二日条では、「奇謀の至り」と非難した。建久八年に亡くなった一条能保と高納親子の遺臣・後藤清綱、中原正経、小野良成が、これらの経緯により、通親襲撃を企てる「三左衛門事件」が発生する。鎌倉幕府は大江広元を中心に乙姫入内問題及び今後の朝廷との権勢を見計らい、通親支持を表明した。これにより通親排斥の動きは抑えられて京は平静に帰している。後鳥羽上皇は頼朝死後も幕府とは協調路線を示すが、朝廷内では、後鳥羽上皇を中心に生母・七條院の復権や院政体制を確立してゆく。

朝廷は、建久十年/正治元年(1999)一月二十六日、「前征夷大将軍の遺跡を相続し、その家人・郎従らに命じ以前と同じく諸国の奉行をするように」と宣旨が下され、頼朝の嫡子・頼家に頼朝の跡を継がせた。源頼家は先月二十日に従五位上右近衛権少将から左中将に転任されている。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽天皇像、源頼家蔵)

 建仁二年(1202)七月二十三日、鎌倉幕府二代将軍、鎌倉殿として征夷大将軍に叙任された。任官に対し二年半が経過したことは、位階がまだ低くかった事で、従五位右近衛権少将から左中将に転任し、時期を置いた事と、全国的な警察権を掌握する日本国惣追補使として朝廷は難色を示したことである。征夷大将軍は、蝦夷討伐軍の司令官として、臨時にその地域の軍指揮と支配する裁量権が与えられるが、平時においては名誉職的要素が大きい令官下の官職であった。しかし、日本国惣追補使として任命されている。頼家は古今に例を見ない武芸の達人とされるが、『吾妻鏡』は、北条氏により編纂されたことで、頼家に対しては、厳しく批判的に記述しており、蹴鞠に熱中し数々の「乱行」を繰り返したとされ既に人身が離反したことを示し、頼家暗殺を正当化しようと記載されている。しかし、当時の他の資料を見ると九条兼実の日記『玉葉』や慈円の『愚管抄』の記載の中では、「乱行」の記載は、見られない。わずか頼家の記載は、九条兼実の日記『玉葉』に正治二年正月二日条では、北条時政は頼家の弟千万(後の実朝)を将軍に擁立した事を報告したことが記載され、慈円の『愚管抄』の記載の中で後に梶原景時を死なせたことは頼家の失策であると評している。

 

 鎌倉幕府は、頼朝が建久十年一月十三日に死去した後も、三幡の入内工作を続けるが六月三十日に姉の大姫と同様に早拠し、頓挫してしまった。頼朝・頼家は源(土御門)通親と高階栄子に翻弄され続けた事になる。正治元年(1999)四月一日、これまで政所の付属機関として多くの訴状の対所が行われたが門注所を独立させ、三善康信を執事(長官)として御所の外郭に建てられた。正治元年四月十二日、朝廷の宣旨により頼朝の嫡子・頼家が頼朝の跡を継承した後、わずか三ヶ月で幕府においての頼家の訴訟親裁を停止され、北条時政ら十三人の合議で諸事を裁決することを定めた。その十三人は、公文所別当・大江広元、問注所執事・三善康信、公文所寄人・中原親能、政所家令・二階堂行政、侍所所司・梶原景時、公文所寄人・足立遠元、三河守護・安達盛長、常陸守護・八田知家、信濃 上野守護・比企能員、伊豆 駿河 遠江守護・北条時政、寝所警護衆・北条義時、相模守護・三浦義澄、侍所別当・和田義盛らにより合議による処置がとられた。その他の者は訴訟について頼家に取り次ぐことを禁止することが定められる。これが十三人の合議制であるが、実際には十三人による合議はほとんど無かった。また、朝廷との折衝に対し十八歳の頼家を補佐する建前で顕示されたと考えられるがが、この十三人が政権内で特権的な地固めになった事は明確である。

 

 また東国坂東武士の成り立ちで、朝廷から東国・坂東の地を武士の独立を目指した平将門と桓武平氏で、将門に近いとされる伯父にあたる良文流。承平の乱で敵対した従兄弟の平貞盛の伊勢平氏。藤原北家魚名流の藤原秀郷の流れが主流であり、当時は足利氏、新田氏においては小さな勢力であった。十三人の内が文官・大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政の四名。桓武平氏良文流・北条時政、義時、三浦義澄、和田義盛、梶原景時の五名。藤原北家魚名流が比企能員、安達盛長、足立遠元、八田知家の四名である。梶原景時は、幕府体制側として文官に准ずる立場と考えれば、武士の御家人は、良文流四名と秀郷流四名と均衡する。東国の独立的立場を追求してきた東国坂東武士は、頼朝の死後において両者が対峙する形になっていることが興味ぶかい。頼朝の功績を継いだ頼家に対し、頼朝の舅である北条氏の権威の継続と頼家の乳母夫の立場から頼家を擁立させてその地位を掌中に収めようとする比企氏の対立に動いていく。まさしく、過去の承平の乱の確執と既得権益の維持と言わざるを得ない。

 

 頼家の訴訟親裁停止については『吾妻鏡』に明確な記載は無く、その後の「乱功」を後事談として記載している。頼家は、独自性を打ち出し門注所の独立、五月には御家人の兄弟間での争われる訴訟に就き和解を命ずる宣言。田数にして五百町を超える所領を持つ裕福な御家人から超過分を取り上げ貧しい御家人たちに再配分という徳治主義的な政策を立てている。しかし、十三人の重臣たちや所領恩給で拡大した東国の武士にとっては許される事ではなく大江広元がこの政策に異を唱え、三好康信の調停においても頼家は意志を変えなかった。そしてこの政策は結局実現することはなかった。これらの頼家の政策は戦時体制から平治体制の移行期を示し、武士から公卿・貴族的な思考の変化が認められる。そして、その後十三人の重臣たちはその後、激しい権力闘争に入っていくことになる。 ―続く