源頼朝は奥州征伐において、多数の意義を残している。河内源氏の祖・源頼信が長元元年((1028)平時忠の乱を鎮定し、その子・頼義と孫・義家が永承六年(1051)の前九年の役、義家が承保三年(1083の)後三年の役を平定し、東国武士を集結させ武士の棟梁として確立した。その後、平家の台頭で不遇を極め、保元・平治の乱で没落し頼朝は配流となった。
頼朝は以仁王の令旨を受け挙兵し、頼朝は挙兵時の石橋山の合戦で自ら出陣したが、敗れ、房総の安房に向かい再起を遂げた。富士川の合戦においては勝利するが、その勝利は甲斐源氏の武田信義の貢献度が高い。頼朝にとって奥州藤原氏は、常に脅威であり、治承・寿永の乱に鎌倉を発ち上洛する事は困難であったと考えられる。その後の治承・寿永の木曽義仲、平家追討においては頼朝の異腹弟、範頼・義経が代官として赴き、戦勝し、遂に壇ノ浦で平家を滅ぼした。しかし、東国坂東の背後に奥州藤原氏の脅威が残されていた。
(写真:ウィキペディアより引用 毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代))
平家滅亡後、頼朝による合戦での勝利は、その後の幕府と御家人との関係・体制を確立する上で、従臣としての御家人の確立と朝廷への軍事力の誇示が必要である。過去の河内源氏・伊勢平氏の武士集団の両頭により没落した源氏にとっては、その教訓を生かし、唯一の軍事勢力として確立しなければならなかった。そのため朝廷は、均衡を保つため源家以外の奥州藤原氏の軍事力を求める。頼朝は奥州藤原氏の軍事力を払拭により自身の求める武士集団が確立する。
奥州討伐は、本来大義名分の無い合戦であり、私戦と言ってもおかしくない。しかし頼朝の政治手腕により、頼朝の謀叛人であり異腹弟義経を殺害した藤原泰衡を朝廷の義経探索・捕縛の宣旨がありながら義経を殺害した藤原泰衡の征伐に切り替えた。奥州藤原氏を滅亡させ、唯一の武士の棟梁として、源家の本流としての威厳を示すために、前九年の役での平定した康平五年(1062)九月の源頼義が安部貞任の首を獲た時、横山野大夫経兼が承ってその門客である貞兼に首を受け取らせ、郎従の惟仲に首を長さ八寸の鉄釘で打ち付けかけさせた。そして、同じ子孫に同じように行わせる。この事は、頼朝がこの国の軍事力・唯一の武士の棟梁として確立した事の示威行為であった。
(写真:ウィキペディアより引用 金色堂覆堂 屋外に再現された金色堂)
御家人に対しての奥州征伐は、頼朝が畿内以西の薩摩や・かつての平氏の基盤であった伊勢・安芸など平氏・源義仲・源義経に従っていた者の全国的動員を行っている。文治五年(1190)二月九日源頼朝下文により「武器に足る輩」に限定された。また御家人の不参加は所領没収を課している。政治的意図として全国的に頼朝に従う「御家人」の確立化を図り、この合戦により決起となり達成された。御家人達はこの戦勝においての勲功により多くの所領・賞を賜っており、御恩と奉公の関係は、御恩により所領が新給され、より一層の忠誠による主従関係を確立してゆくことになった。すなわち頼朝の御家人たちの餌付けである。しかし、頼朝の死後、北条氏を中心として御家人達の争乱により所領の新恩給付が行われることに変わって行く。
頼朝のその後の奥州経営は、地頭を設置するが、国府・特に国郡に負担を掛けずに住民を煩わすことなく、藤原氏の先例に倣い処置させたことにあり、早期の農業活動と経済活動の再開を勧めたことにある。住民を安堵させ、院・朝廷・公家・寺社領家に対しての年貢・供物を滞ることなく納め、一層の朝廷との信頼関係を強化してゆく朝廷との協調路線をより明確化させた。
(写真:ウィキペディアより引用 中尊寺堂内堂内、中央壇)
同年十一月三日、院から奥州征討についてお褒めの宣旨が届き、頼朝は喜んだという。また院は、頼朝に征討についての褒賞と御家人の勲功の賞につき報告するように伝えられたが、頼朝は褒賞につき固く辞退した。理由とし勇士は戦場にて武勇を振るう事が第一であり、その名が上聞に達すれば名誉であるが、記録が残れば名が漏れた後世の子孫は、先祖が軍忠を示すことが無かったと恨みを懐くこともあるためと伝えている。これは武士の棟梁として頼朝と院、頼朝と御家人(武士)との関係上必要な事であった。
同八日、帰国していた葛西清重に「平泉の辺りは特に対策を施して窮民を救うように。」と追討による被害の無かった辺りから農行に必要な種子や農具を遣わすよう、秋田群から種子などを納め出すように、今は冬であるが、あらかじめ外分を下しこの措置を住民に伝えておく事。また泰衡に味方し、逃走したものを捕縛する事。泰衡の幼い子息を探し出す事など細かい指示を出し奥州に戻した。
文治五年十二月六日、中納言(藤原)経房より、褒賞を行うべきであると院宣が鎌倉に到着した。頼朝は重ねて辞退し、ただし奥州・奥羽の土地については明春にもご沙汰が欲しいと上申した。
同二十五日、後白河院も頼朝と同様に協調路線をあゆむべく、頼朝は院から上洛を命じられ、明年に上洛する旨を伝える。
(写真:ウィキペディアより引用 無量光院跡と金鶏山 奥州市の「えさし藤原の郷」に再現された無量光院)
建久元年(1190)正月六日、奥州の故(藤原))泰衡の郎従であった大河次郎兼任らが昨年の十二月から叛逆を企て七千余騎を率い鎌倉に向かって出陣したが、秋田大方の志加の渡しで氷が割れ五千余人がおぼれ死んだ。奥州合戦の際に生け取られた由利八郎伊平は頼朝に許され御家人として許され、小鹿島の大社山・毛々(もも)佐田で兼任と戦い宇佐美実政も討たれている。相模以西の御家人に動員令が出され、同月八日、東海道郡は千葉胤重、東山道は比企能員を発行し、十三日、追討使として足利景兼、大将軍俊千葉胤重が出陣した。頼朝は御家人に手柄を争わず、兵力が集まり準備をととのってから事に当たるよう指示している。兼任は陸奥中央部に進み平泉にはいり、奥州残党を加え兵は一万騎になっていた。多賀城国府の留守居所も兼任に同調した。二月十二日に足利義兼が率いる軍と戦うが壊滅的な打撃を受け逃走、五百騎の残存兵力で衣川にて反撃するが敗れ、各地を逃走する。千葉胤政・葛西清重・掘親家らは兼任が蓄電した状況を鎌倉に飛脚を送る。兼任は各地を逃走するが、従った兵はいなくなり、自身の進退が窮まった。三月十日、栗原寺(現、宮城県栗原郡栗駒待雄西沢の真言宗医作山上品寺境内付近に所在した)に出て、ここで兼任は錦の脛巾(ははぎ)を着用し金作りの太刀を帯びた姿に樵(きこり)が怪しみ十数人で取り囲み、斧で惨殺された。その事を胤正に知らせ、首を見聞したと言う。 ―続く