坂東武士と鎌倉幕府 七十五、奥州合戦の戦後処理 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 源頼朝の奥州討伐は、東国・坂東の背後を揺るがす陸奥・出羽を領する藤原氏の脅威を討ち除く必要は最大の宿願であったともいえる。奥州合戦は、勝ち得る戦で頼朝の将としての器量を示すものではない。ただ唯一の武士の棟梁として、また前九年・後三年の役での源家の本流としての威厳を示すことが出来た。頼朝の評価は為政者・政治家としての戦後処理に見ることが出来る。源平合戦での朝廷との妥協的宣旨の寿永二年十二月宣旨や文治の勅許を得た西国経営とは違った頼朝の手腕を見ることが出来る。戦場であった奥羽の領地での寺社の保護と農耕活動を再開させる農民への安堵。徴税の体制の確立と経済活動の再開。また敗者の武士や在地豪族で能力のある逸材を徴用し、短期間で復興させた事は、この中世において武士の先立ちとしての評価は最も高いと考える。

 

 文治五年(1189)九月八日、頼朝は蜂杜(はちもり)に逗留していた。この日、頼朝の雑色である安達清経が飛脚として上洛し、帥中納言藤原経房に合戦の状況を記した文書を渡している。翌九日、京の一条能保から使者が陣岡に着き、去る七月十九日の泰衡追討の口宣を持参した。副え下された院宣には、「奥州追討の事は、いったんは制止したが、重ねて計らい申されたことは、最も然るべき処置である」。この使者が申した。

「この宣旨は七月二十四日に奉行の蔵人大輔藤原家実が帥中納言(藤原経房)に送り、同二十六日帥の京(経房)が武衛(能保)に送られ、私は同二十六日に出京しました」。院宣には、

「文治五年七月十九日  院宣

陸奥国の住人である泰衡らの凶悪な心を生まれながらにもち、辺境で威を振るっている。一方では賊徒(源義経)を匿ってみだりに野心を同じくし、一方では朝廷の使者に逆らって朝廷の権威を忘れたかのようである。悪だくみの果てにすでに叛逆に及ぼうとしている。そればかりか奥州・出羽の両国を掠め取って公田・庄田の年貢を納めず、恒例の仏事、納官封家の供物の義務も空しく忘れており、その費用を欠こうとしている。よこしまな謀は一つではなく、厳罰は遁れ難い。正二位源朝臣頼朝に命じて、その身を征伐し、長く後々の乱れを断つようにせよ。

蔵人宮内大輔藤原家実 奉(うけたまわる)」と記されていた。

 

 頼朝の奥州討伐の軍議が去る七月十七日に開かれ、東海道の大将軍・千葉介常胤、八田右衛門尉知家。北陸道の大将軍・比企藤四郎能員・宇佐美平治実政。頼朝の大手軍は先陣・畠山次郎重忠等が奥州へと三軍をもって執り行うことが決められた。そして同月十九日、東海道、中路の頼朝大手軍の奥州に出陣し、朝廷はその動向を見て急遽宣旨が下されたと考えられる。朝廷は治承・寿永、義経の捜索などあわただしい世情に対し平穏を模索していた。しかし朝廷の平穏とは年貢及び供物の享受が滞りなく行われる事であり、再び奥州での戦乱が起こればその享受も滞る。頼朝の追討軍の強大さに慌てて宣旨を下したのか、また、追討する頼朝勢の勝利を確実にする宣旨でもあったと考える。朝廷は権威だけを誇示し、日和見的政策を行っている様相が窺え、奥州藤原氏が滅亡した今、頼朝の軍事力により、その権威を保つ術しかなくなった。

 

写真:ウィキペディアより引用  中尊寺金色堂覆堂、屋外に再現された金色堂)

 この日、蜂杜の近隣の称徳天皇の勅願で諸国に安置された一丈の観自在菩薩(観音菩薩)の内で唯一像が安置されている高水寺(岩手県紫波町二日町に所在し寛永年間、三割村(盛岡市)に移されたが明治初年廃寺)の住僧・禅修房ら十六名が頼朝の宿所に参って訴え出ている。

「軍勢が野宿しているために、御家人等の従僕が多く当寺に乱入して金堂の壁板十三枚を剝がして取ってしまいました。仏の冥利は非常に測りがたいものです。早く糾明していただきたい」。

 頼朝は非常に驚き嘆かれ、梶原景時を召し犯人の調査を命じた。景時が探索したところ、宇佐美実政の従僕の仕業であり、頼朝は従僕たちを召し捕えさせ、景時に重ねて申した。

「衆徒の前で刑罰を加え、彼らの怒りを解くように」。

その捕らえた従僕の左右の手を切って板の上に釘で打ち付けた。頼朝は寺の興隆について望みがあるかどうかと訪ねると、禅修房は、

「訴えについてはすぐに裁断を下して頂きましたので、この上望みはありません」と言い寺に帰ったとある。

 

(写真:ウィキペディアより引用  中尊寺堂内、中央)

 また同郡(岩井郡)に藤原清衡・基衡・秀衡らが数の同等を建立した事を聞かれ、比企藤内朝宗を遣わした。いわゆる「寺塔已下注文(じとういかちゅうもん)」で八ヶ条からなり、一、関山中尊寺の事。二、毛越寺の事。三、無量光院の事。四、鎮守の事。五、年中恒例法会の事。六、両寺一年中の問答講の事。七、舘の事.八、高屋の事。七、八は平泉の町並みの詳細を求めたものである。頼朝は朝宗に意思を伝えた。

「泰衡は征伐しても、それらの寺の僧侶を困窮させてはならない。また仏閣の数や規模を報告せよそれに応じて仏聖灯油田(ぶっしょうとうゆでん:仏聖は仏に備える米、灯油は仏を灯明のための油、その費用を負担するために設定された田)を計らい充てよう」と諸寺に仰せ遣わすためであった。

 

 同月十日、奥州の関山中尊寺の経蔵別当の大法師信連が頼朝の宿所に参上し訴えている。

「当時の経蔵をはじめとする仏閣・塔婆は藤原清衡が草創した物ではありますが、かたじけなくも鳥羽院の御願所となり長い年月を経てきました。寺領を寄付され、また御祈祷料も当てられてきました。経蔵には金銀泥行交じりの一切経が納められており、霊験あらたかな霊場です。したがって常に哀微しないようにお定め下さい。次に当国で合戦があったため、自領の住民らが恐れをなして逃亡しています。早く安堵するよう命じて下い」。

頼朝は、経蔵領である骨寺の境の四至(しいし:領域の四方の境)内について諸役免除の文書を下し、戦におそれ逃げた住民、僧侶に安堵して元に戻るよう指示し、藤原親能がこれらを奉行している。

 同十一日、平泉内の諸寺の僧侶である源忠已講(げんちゅういこう)、心連大法師、快能等が参上し、自領については、藤原清衡の時。勅願円満の御祈禱料所とされたからには、今後も相違があってはならない旨の下文みを賜った。「寺領はたとえ荒廃した土地であっても、地頭らが妨害をしてはならない」と記されたという。この日頼朝は陣岡を発ち、行程二十五里のため黄昏時に厨河(くりみやがわ)柵に入った。翌十二日に頼朝は、再び奥羽両国の騒動で、家族が離散し鬱屈した庶民や耕作を放棄し、山林に隠れ住む農民を召し集めて、元の住所に安堵するよう、よくよく仰せられ、宿老の面々には綿衣一領、馬一頭を賜った。そして勇散の誉れが高い由利維衡を赦免している。しかし武具の所持は許されなかった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 無量光院跡と金鶏山、奥州市の「えさし藤原の郷」に再現された無量光院)

 同十四日、頼朝は陸奥・出羽両国の民部省図帖(国衙に保管された田地の台帳)や太田文(国内の荘園・公領のすべての田地面積や領有関係を記したもので徴税などの際の基本台帳)をはじめとする文書類を求めるが、平泉が炎上し焼失したため、その詳細を知ることは困難であった。しかし、古老が奥州の住人である豊前介清原実俊及び弟の橘藤五実晶が故実に詳しいというため、召し出して詳細を問う。兄弟は、記憶していた両国の所在を絵図に記し、並びに定められた諸郡の土地の証拠文書を注進した。余目(あまるめ:現、山形県庄内町余目他不祥)以外、郷里・田畠、山野河海が全てその中に記載されており、頼朝はたいそう感心し、そのまま召し使えることになったという。

同十五日、樋爪館を放棄し敗走していた樋爪俊衡と弟季衡が降伏の為に厨河柵に参上した。俊衡は六十を超え、白髪交じりで弱々しい姿で師衡、兼衡、忠衡の三人の息子、と季衡の息子経衡の姿もあった。頼朝は俊衡の姿を見て、憐れみ、八田知家に預けた。知家の宿所に戻った以降法華経を独寿する以外は一言も発せず、仏法に崇敬する知家は非常に喜んだという。翌十六日、八田知家が御前に参上して俊衡の法華経の転読を申し上げると、俊衡の罪名を定めず、本領(比爪)を安堵した。この沙汰は、『法華経』の行者を守護する十羅刹女(じゅうらせつにょ)によるもので、はじめは鬼女であったが鬼子母神と共に仏の説法により十人の神女となった。十羅刹女の照鑑により免じたことをよくよく仰せられたという。

 

 同十八日秀衡の四男高衡が下河戸行平を通じて降伏し、参上した(高衡は奥州合戦で秀衡の息子として唯一生き残るが後十二年後の兼任の乱の首謀者と係りうちとられた)。降人に対し赦免や本領安堵等の処理を行い同十九日平泉に向かう。二十二日、葛西清重を奥州総奉行に任命した。二十三日平泉で藤原秀衡が宇治の平等院を模して建立した無量光院を巡礼して、九月二十八日、鎌倉に向け出発した。 ―続く