(写真:腰越漁港からの江の島)
治承・寿永の乱で木曽義仲、平家を滅亡さめた源義経は、史上まれに見ない軍略家と言えよう。しかし政治においては、無知であった。兄頼朝の推挙、許可なく任官を受け、そして梶原景時の讒言等で不振を買う。捕縛された平宗盛の護送において京から鎌倉に向かうが、鎌倉を目の前にした腰越に逗留され鎌倉に入ることを許されなかった。義経の心中は「関東に参れば、平氏討伐の件については、事細かにご質問にあずかるだろう。また、自身の大きな功績が賞せられ、本望がかなえられるだろう。」という物であった。義経は鎌倉に入ることが許されないため、自身が謀叛を企てていない事の説明とわび状(腰越状)を大江広元に託し、とりなしを求めたが、頼朝はこれを受け付けなかった。
(写真:腰越 満福寺)
文治元年(1185)六月九日、義経は頼朝の拝謁もなく宗盛、重衡を連れ京都に向かう。『吾妻鏡』六月十三日条で帰洛の際「関東において恨みを成す輩は、義経に属すべき」と言葉を吐いた。頼朝は激怒し、「たとへ予に逆らおうとしても、どうして後世の聞こえを憚らなかったのか。全く持って奇怪な振舞いだ。」と記載され、義経に与えた平家没官領二十四か所全てが没収された要因として記されている。史上まれに見る大勝利の立役者の俊経が、頼朝に代わり源家の棟梁を称した場合には、再び大きな戦乱と頼朝自身の脅威と破滅への可能性もあったと考えられた。義経は、延慶本『平家物語』では、義経がいったん鎌倉に入り頼朝と対面した後に経に戻ったとされ、『愚管抄』にも義経は鎌倉の館に赴き、京に戻ってから頼朝に背信の心を抱いたとある。
(写真:ウィキペディアより引用 中尊寺所蔵の義経像(部分。室町時代か江戸時代作)、富士川)
源義経は、兄頼朝の挙兵を聞き、奥州から駆けつけて富士川合戦の翌日、治承四年(1180)十月二十一日に頼朝と対面した。互いに昔を語り合い、懐かしさのあまり涙したという。その後、『吾妻鏡』義経の記載は、養和元年(1181)七月二十日条に見られ、鶴岡若宮社殿の上棟が行われた際、頼朝は大工の棟梁に馬が賜れた。その馬を引くように義経に申したところ、義経はおり悪くして下手を引く者がいないと言うと、頼朝が重ねていった。
「畠山重忠、それに佐貫広綱等がいる以上、どうしてふさわしい者がいないと言うのか。これは全く役目が卑しいものだと思い、あれこれと言って渋っているのだろう」。
義経は非常に恐れ入り、すぐに座を立って二頭の馬を引いたと記される。流人として二十年を過ごした頼朝と京の鞍馬から奥州の藤原秀衡に庇護を受けていた差であろう。また頼朝は、自身が武士棟梁として東国・坂東を束ねてゆくならば、血族・同族であろうが、頼朝の臣下として他の御家人と同様に扱わなければ、示しがつかず、主従関係はいずれ崩壊する。頼朝は治政においてぶれる事無く実行した政治家であった。また義経は軍略には優れた武士であるが、政治には全く疎い人物であったことが義経の生涯を見ても窺うことが出来る。
(写真:鎌倉源氏山源頼朝像、ウィッキペディア引用 みもすそ川公園の源義経)、
「坂東武士と鎌倉幕府 六十一、西海追討 範頼の苦境」で先述したが、文治元年(1185)二月十六日に義経が先陣となり平家追討のため讃岐国に赴く。この出陣は、義経が後白河法皇に西国への出陣を奏上し許可を得たとする説と、頼朝の了解の下での出陣とする説があるが、鎌倉方として当初から兵站線の重要性が示されており、『吾妻鏡』での鎌倉と京との連絡が詳細に記されている点、この時点では頼朝の了解を取ったと思われるが、『吾妻鏡』の十六日条の記述及び、その後の記述から見て頼朝の指示を明確にする記述が無い。もし、頼朝に許しなくして義経が後白河法皇に西国への出陣を奏上して許可を得たとするならば、平家追討の大将軍・異母兄の範頼に対しての越権行為で、特に壇ノ浦での海戦において西国武士を率いて平家を滅亡させた功績は、頼朝の配下の東国・坂東武士の御家人たちに恩賞の機会を亡くした事になる。また、文治年五元月五日条において「今回、義経は壇ノ浦合戦を遂げた後、九州の事についても範頼からその権限を奪って支配をおこなっており配下の東国武士に対しては、義経はわずかな過ちも赦そうとせず義、また事情を武衛(源頼朝)に申し上げず、ひたすら恣意により多くの人々を勝手に処罰していると言う事が聞こえてきた。事態はすでに多くの人々を悩ませるところとなり(義経の)罪は許し難い。そこで義経は先に御勘気を蒙ったという。」と記されているが、その越権行為の詳細についての記述はなく、讒言についての追従させるための記載ではないかと思われる。しかし、義経の性急な壇ノ浦での決戦で安徳天皇、二位尼(平時子)を自害に追い込み、宝剣を失った事は、頼朝の後の朝廷との取引材料と戦後構想を大きく狂わせたことは確かであり、壇ノ浦での宝剣の探索は後の数年ほどかけて行われるが、結局探し出す事は出来なかった。
(写真:京都御所)
京に戻った義経は、同年八月十六日、の小叙目で伊予守を兼任する。これは頼朝が以前に義経が従五位、左衛門少尉・検非違使少尉を叙任されたことを問題視したが、四月頃に頼朝が内々に高階泰経に申請していた事で義経の不義などが露見したとはいえ、いまさら朝廷に訴えて止めさせる事は出来ず勅上に任せたという。また壇ノ浦で捕縛した平時忠の配流が同年五月二十日に決定していたにもかかわらず、時忠の娘・蕨姫(わらびひめ)を娶り、時忠を庇護していた。同年九月二日、平時忠が未だ京に滞在している事に頼朝は怒り、源行家の探索と誅殺を義経に命じ、そして義経の動静を見るため梶原景時の嫡子・影季を京に送った。義経は憔悴した体で現れ、自身が病である事と行家が同じ源氏であることと弓馬に秀で家人だけを遣わしても容易く降伏させ難い。病気が治り次第計略をめぐらしたいとの事を兄・頼朝に披露するように景季に伝えている。同年十月六日に影季が鎌倉に戻り、頼朝に伝えると頼朝は義経の病は偽りで、すでに行家と同心していると判断し義経の誅殺を決めた。同月九日、評議が行われたがこの誅殺について多くの者が辞退したが、土佐房昌俊が進んで引き受けたので京に遣わすことになった。ここで頼朝は、九日間での京への行程が定められたと『吾妻鏡』で記されている。 ―続く