文治の勅許が源頼朝に下され、鎌倉幕府の形態が整えられる。文治元年から二年にかけて、幕府と朝廷との間で様々な政治課題の交渉が行われ、互いに自己の有利となる交渉が行われた。
文治元年(1185)十月に源頼朝は、自身の追討宣旨が下りた事などから、朝廷内で院の独裁を掣肘するために院近臣の解官、議奏公卿による朝政運営、摂政である藤原基通から藤原忠通の三男・兼実を摂政に推挙して、内覧宣下を柱とする朝堂改革要求を後白河院に突き付けた。近衛家の藤原基通は平家に近く、また頼朝追討宣旨において基通が院に奏上したという。松殿家の藤原基房は木曽義仲と結んでいたため、本来は頼朝寄りの人事を検討したが、故実に通じた教養人であった九条家の家祖となる兼実を推挙した。特に頼朝とは、近くなく、摂政の推挙も兼実にとっては、全くの寝耳に水であった。
(写真:ウィキペディアより引用 後白河法皇像、)九条兼実像『天子摂関御影』より
『玉葉』文治元年十二月二十七日条に、この推挙に対し兼実は「夢のごとし、幻の如し」と驚愕し、関東と内通している嫌疑をかけられるのではないかと怯えている。『吾妻鏡』文治二年二月十七日条では、「推挙すると言う事を内々に兼実に申されたが、院(後白河院)の御意向に叶うまいと兼実がためらっていたが、遂に申し上げられたのであるという」。後に兼実は、頼朝の長子・大姫の入内に関し対立的様相も示している。兼実は、四十年の間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級資料であり、また弟の慈円も史論書の『愚管抄』の作者である。
同年三月十二日に、院は兼実の摂政・氏長者を宣下されるが、後に後鳥羽院崩御後厳格な政治施政を行う兼実は治天の君の後鳥羽天皇と対立し、また中宮・任子が皇子を産まなかった事で延臣の大半から見切りを付けられ、建久七年(1196)十一月に関白の地を追われている。その後、二度と政界に戻る事は無かった。しかし九条家は後に、二条家、一条家の分家を有し、双璧を担っていた近衛家は鷹司存在を高めた。存在を高めた。高めた。存在を高めた。
各公領・荘園での地頭との訴訟が、この頃増加していく。文治の勅許の申請で上洛した北条時政は、その後は京都の警備に就いていたが、頼朝は鎌倉への帰参を命じて洛中の警備は一条能保に継承させる。西国においては、戦後まだ平穏が訪れず、納税・食糧問題においても課題が残されていた。時政は洛中の治安維持、平家残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との折衝が多岐にわたっていた。時政の職務は、強権的な面もあった事が、『吾妻鏡』同年二月一日条に捕らえた盗賊十八名を検非違使に引き渡すことなく即座に首を刎ねたとある。しかし同月二十五日条には、「北条殿は昨年から京都に駐留して、武家の事を行っているが、事に行うにあたっては経に懸命且つ正直であり、上下の人々から合美談とするところである」と記され、院及び朝廷は時政が京を去った後の洛中での治安問題に対し憂慮して引き留めるなど、院からも高い評価も受けている。同日、「良からぬ者が時政の命令として、七条の細工から鐙を無理やり取ろうとした。この事で訴えがあり蔵人が尋問した。そのため、時政は大いに驚き騒ぎ、今日直ちに陳謝した」と記されており、この事で、頼朝は時政が第二の木曽義仲になるのを怖れたとも、また朝廷との長い期間の接触に危惧し、鎌倉帰参の命を出したと考えられる。
北条時政は諸国に任命した惣追捕使幷地頭の内、七ヶ国を拝領していたが、地頭職を辞退した。
『吾妻鏡』三月七日条に、時政が申した七カ国地頭辞退の件、兵糧米の事、平家没管の所々の事を佐少弁・藤原貞長が奉書を帥中納言藤原経房に送り、院に奏聞したという。その内容は、
一、地頭辞任の事。人々の愁いであり、それを停止すると言う事は、まことに穏当な事であろう。
一、惣追捕使の事。その名は異なっても、前(に述べた地頭職の事)と同じであろう。ただし源義経・行家を捕らえるまでは、二位卿(源頼朝)から特に申請がないのに、すべてを停止すべしとの命令は下し難い。世の中が落ち着かない間は、国ごとに惣追捕使を置くか、もしくは広大な荘園だけに計っておくのが良いであろう。非常に狭い所領にもすべて置けば、喧嘩が絶えず、訴訟は尽きないであろう。とりあえず人々の愁いを鎮め(義経・行家)両人を探し出す手段とすべきであろう。
一、兵糧米未納の事。道理に従って、処置するのが良かろう。
一、没官の所領のこと。二位卿から申してこないので、判断を下し事が出来ない。以上の事柄につきこの様に取り計らわれたい。これらの詳しい事情が分かっていないのでよくよく考え配慮されたい。この春に農業を円滑に進めるようにしなければならない、すべてが無いと同然となってしまう。よくよく寛大な処置をすれば、きっと天に叶うであろうと、内々にお考えのあるところです。以上申し上げます。との内容であった。
朝廷は、頼朝に関東御知行国の下総・信濃・越後国の年貢未納分の一覧を送り、鎌倉に同月十二日に鎌倉に到着し、下家司を呼び催促を命じている。しかし、関東語分国の年貢は、朝敵の討伐などで納入が疎かになっており、以前の未納分は免除して今年からの期限に間に合わせるように対処すべき宣旨を下す様、頼朝は朝廷に伝えた。頼朝は、所々の荘園の預所から武士の狼藉に対する訴えが起こり、時政に諸国の兵糧米催促を一時止めるように命じて、帥中納言藤原経房に伝えさせている。同月二十一日に諸国兵糧米催促の事は、今後は停止するようにとの宣旨が下された。院は、これらの頼朝の要望に応えながら院の御灌頂費用を用立てるように命を下している。駿河・上総領国文米戦国、諸国産材の御所良文の白布千反・絹百疋であり、頼朝はそれを受けた。守護・地頭の問題はこの年の文治二年十月八日に出された宣旨(天皇・太政官の命令を伝達する文書名)と、九日の院宣(上皇の仰せを奉った側近がその意を対して発信する書札用文書)が鎌倉に到着しており、、その内容は、「平氏から追捕した所領に補任した地頭らが、大した謀叛人の旧領では無いににもかかわらず所領に課役を課し、公領を煩わしていると国司・領家が訴えていた事から現在の謀叛人の旧領の外は、年貢を課すことを停止するよう」に命じた宣旨・太政官符であった。
翌二十四日頼朝は、三善善信・康信、藤原俊兼と相談し、早速、請文を奏上している。
「ひざまずいて院宣を受け取りました。
右、御命令になった諸国の庄園・公領で平氏追討した後に、その旧領に補せられた地頭らが勲功の功として、加徴米の課役を賦課し、勝手な権断を行い、領主の土地を妨げていることについて、官符・院宣を謹んで拝見いたしました。現在の謀叛人の旧領以外に、地頭の関与するのを停止するように、面々に命令を出しました。(朝廷からも)早く国司・領家に命じて(地頭の非法を)お禁止ください。その上で勝手な振る舞いをする者たちがいた場合には、その名を誅してお知らせくださればこちらで処罰します。以上の事を言上していただきたい。院宣を受け取っての御答えは以上です。頼朝が頓首し恐れ謹んで申し上げます。」とのことであった。仰々しいながら皮肉った内容のように思われながら、一定の譲歩はしつつも「その名を注してお知らせくださればこちらで処罰します。」と、就任権と罷免権は頼朝・幕府が持つことを意味しており、謀反人旧領には地頭職を設置し得るという鎌倉期を通しての原則を確立した。これが後の承久の乱の火種となった要因である。―続く