古代律令制における諸国は四等級の格付けが行われ、大・上・中・下国と分けられた。朝廷から任じられた中・下級貴族は国司として四年から六年の任期で受領され任国に赴く。奈良時代には国司が、諸国における戸籍の作成(人頭税による)、租税の徴収、兵士の徴収、班田収授など行い、諸国を治めるために設置された。国司の身分は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官と史生(ししょう)以下の下役人で構成されていた。
平安期に入ると、国司は京に在住し、代理人の目代を派遣して「遥任国司(ようにん):遙授(ようじゅ)」が 俸禄 ・ 租税 などの収入を得ており、そのため室町期には名目だけの役職となり、江戸時代まで続くが明治期に入り律令制度が無くなると廃止されている。また、国司の下で郡の統治や租税の徴収訴状の対応を行う郡司も同時期に設置された。平安初初期には、桓武天皇が多くの皇子・皇女を残し、続く嵯峨天皇も多くの皇子皇女に恵まれる。多数の親王家を維持する財源と官職が不足した。また親王は、律令制で太政官に属する八省(八つの中央行政官庁)中務省、式部丞、自部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の長官である八省卿であった。親王は後宮において養育されたために世情に通じていないことが多く、省の職員が不祥事を起こした場合に上司に当たる八省卿の親王が連座する危険性がある事を従三位中納言・清原夏野(舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男)が、それらの問題を指摘して。天長三年(826)に九月六日官符により親王任国制度が発足された。
当初この制度が純和天皇の治政だけに限られて始められたが、その後も存続し平安時代を通じて定着する。親王任国に充てられたのは東国の常陸国、上総国、上野国の大国であり、国司の親王は太守と呼ばれ、現地には赴かない遙任であったため当国において実務の最高位は、次官の国介(すけ)であった。平安中期までは中・下級貴族が受領し、介を称して国司の役割を果たし、他国の国守と同列に扱われている。平安後期には当国をよく知り、統治に優れた在郷の有力豪族が在郷長官として介を任命された。三国の有力豪族は、介に任ぜられることにより朝廷からの権威・正統性を得て自領を安堵する。しかし、国司の任期制とは違い、その地の地方豪族は世襲制で役職に就く。朝廷は一部の特定した豪族が勢力を強めないように持ち回り制なども行うが租税確保を強化するため郡司に与えられていた権限を国司に移行し、郡司の役職も名目のみの職に転化していった。これらの朝廷の政策と荘園制度の変革に伴う寄進系荘園の増加により地方豪族の武士達の所領に対する不満と不安が大きくなった。特に東国武士は、西国に比べ開拓が遅れた分、自身が開墾して所領としたものが多く、独立意識が高かったことが平将門の天慶の乱にも窺うことが出来る。
文治の勅許において全国に守護地頭が設置されるが、この勅許において大きな変革をもたらした。守護地頭の設置の目的は、源義経の追討、諸国の治安維持、新恩給付であった。守護は、任命国の軍事・警察権を掌握し、大番役催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕の大犯三カ条の仕事と任地国の御家人とは主従関係を持たず、監督・管理を行う職種である。任命国は領地の支給ではなく、名誉職でもありながら兵糧米の支給を受けていた。後の鎌倉末期・南北朝期には、守護が任地国の荘園を侵略し自身の領地として国中の地頭、荘官、武士たちを支配するようになる。地頭職は、所領の直接的な支給ではなく軍事・警察・徴税権を担保して、土地や百姓を自己の者にして所領管理と支配の権限を認めた物であり、収穫物の一部を得ることが出来た。また、所領をめぐる所務沙汰(紛争)の際では、幕府の任じた地頭の地位だけでは不十分の場合があったとされ、国司や荘園領主から地頭に荘官、郡司、郷司、保司として任命される者も少なくなく、幕府及び国司・荘園領主から二重支配を受けていたとも考えられる。幕府創立初期において地頭職を任じられた武士は、現地事情と識字、行政に疎い東国武士であったため、自身で遠隔地の荘園管理を行わなければならず、年貢運搬、荘園領主間の交渉、年貢の決解・算用ができる有能な現地沙汰人を探し出す必要があった。
地頭の補任権・解任権は幕府が有しており、後には、地頭が様々な理由をつけ荘園領主・国司の年貢の滞納・横領を行う事も少なく無く、両者間に紛争が生じる事もあった。それらの行為で訴訟にも発展し、解任される事もあり、武士の誉れと称えられた畠山重忠は、代官による狼藉で解任されている。両者間に紛争が生じると毎年一定額の年貢納入や荘園管理を請け負う地頭受けを行うようになり、不作の年には約束額を領主・国司に納入しなければならない危険性は生じるが観農の実施により収穫量をあげ、地頭は、荘領・公領においても勧農(農業政策の一つで農業振興・奨励を意味する)を行い、管理支配権を徐々に高めていった。それでも約束額を納められない地頭は、荘園・公領が納める年貢を地頭と荘園領主・国司で折半する中分(ちゅうぶん)や両者の談合(話し合い)で、決着する和与中分、荘園・公領に境界線を引き完全分割する下地中分(したじちゅうぶん)を行っている。幕府も年貢未納の地頭に対し三代執権北条泰時の「御成敗式目」には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職の解任を行う条文も記されている。また、地頭の居館(堀内:堀之内)の周辺に直営地として、平安・鎌倉期においては年貢・公事は免税とされ、地頭の有する下人・所従又は小作人に耕作させ、その収入はすべて地頭の物となった。
地頭は本来、現地という意味を持ち在地による荘園・公領の管理・治安維持を任務とするため、多くの地頭は財務治在住による在地管理を行わなければならない。しかし有力御家人達は幕府の役職を持ち鎌倉に在住しなければならず、そうした御家人は自身の一族、親族また家臣に赴任させる事が多くなった。そのために一族、親族に譲渡する場合もあり、御家人の勢力を強めた一方、家内での紛争の一因となる。後の室町期戦国期の守護大名は、鎌倉期に地方の所領に赴いて発展していった武士達であった。鎌倉期において武士の世と示される事は、この地頭職の解任をめぐって後鳥羽院が幕府に要請して来た事がきっかけとなり、鎌倉幕府の明暗を賭けることになる。 ―続く