源義経が、後白河院より頼朝追討の宣旨を受けるが、挙兵に失敗。西国に落ちる両人は、院庁御下文も賜っており、行家を四国の地頭、義経を九州の地頭に補任し、四国・九州の住人は両人の下知に従うようとの内容であった。源頼朝は、義経の挙兵失敗を知り、上洛の途はを状況を見定めるために黄瀬河で逗留した。
『吾妻鏡』文治元年十一月七日条にて頼朝は、「今度の事は、宣旨(義経に与えた頼朝追討の宣旨)と言い、院庁の御下文と言い、逆徒からの申請のままに出された。何によって勲功を棄却するのか。」と、大変憤った。
黄瀬河から、大和守藤原重弘と一品房昌寛等が頼朝の苦情を伝えるために京に向かい、義経・行家らが既に都を落ちたために頼朝は上洛を中止して鎌倉に戻る。
後白河院・朝廷は頼朝の激怒に苦慮し、義経・行家が大物浜で遭難した事が伝わり、畿内近国の国司に両者の身柄を捕らえる院宣を下した。頼朝は、京及び諸国でこの様な事が起これば関東にとって重大事であり、早急な対応と、度々の出兵に憂慮し、大江広元が献策を進言した。『吾妻鏡』文治元年十一月十二日条には、「世の中はすでに末世です。悪人が最も栄える時代です。天下に反逆する者たちが決して絶えることはありますまい。東海道の内は、(頼朝の)御居所であるので平穏でありますが、悪行はきっと他の地方で起こりましょう。それを鎮圧するために、毎度関東の武士が遣わされるのでは、人々の迷惑となります。また国にとって大きな出費となります。このついでに、諸国に御命令が行き渡るよう、国衙・荘園ごとに、守護・地頭を補任されれば、決して恐れるところではありません。早く(朝廷に)申請すべきです」。頼朝は大江広元の進言(大江広元・三善康信・藤原俊兼・藤原邦通の文官集団が関わったとされる)は、義経追補の為、全国に「守護・地頭」の設置を朝廷に認めさせる内容であった。特に感心し、この献策通りにすることにしたとある。
大蔵卿高階泰経は、使者を鎌倉に遣わす。同月十五日に使者は、鎌倉に着き、まず一条能保の邸に行き能保に鎌倉殿には直接書状を献上すると告げ、別の一通を能保に献じた。その書状の内容は「義経等の事は、全く私の企みではございません。ただ武威を怖れて転送しただけです。どのようにお耳に達しているのでしょうか。世間の流言に依って軽率に処罰されないよう、お宥め下さい」とのことであった。頼朝に献上した書状の内容は「行家・義経の謀叛の事は、ただ天魔のなすところです。追討の院宣が出されなければ、宮中に参って自殺すると申してきました。そのためさしあたり難を避けるために、いったんは勅許があったかのようにしたものであり、決して院のお考えにより与えた物ではありません」。
頼朝は使者に投げ射るように言い放った。
「行家。義経の謀叛の事は、天魔の所為であると仰せられたとは、はなはだ謂(い)われのない事だ。天魔は仏法に対して妨げをなし、人に対して煩い(わずらい)をするものである。頼朝が多数の朝敵を降伏させ、世の政務を君に任せ奉った忠節を、どうしてたちまちに叛逆に変えてしまうのか。特別な院の御意思によらず二、院宣が下されたのか。行家にせよ、義経にせよ、召し取ら得なかったために、諸国は疲弊し、人民は滅亡することになった。よって(天魔どころか)日本一の御お奠供は決して他の者では無い(後白河院の側にある)。」と激しく非難した。この頃、義経が大和国吉野山に籠っているという噂があり数日探索し、義経と伺候していた妾である静を捕らえた。後に尋問のため鎌倉に下向する。静と別れた義経は、十津川に逃れ、後奥州平泉にたどり着く。
頼朝は、後白河院に今回の頼朝追討の宣旨を出した件と引き換えに、全国に「守護・地頭」の設置を朝廷に認めさせるために、北条時政に千騎を率いて上洛させた。文治元年(1185)十一月二十八日に諸国に均しく守護・地頭を補任し、権問勢家の庄園・公領を問わず、反別五升の兵糧米を充て課すことを藤中納言経房に申し入れた。後白河院が義経に頼朝追討の宣旨を出した責任を問う脅迫的な交渉であったとされる。翌二十九日に後白河院は申請通りに藤中納言経房に勅命を時政に伝えさせた。後に藤中納言泰経は、後白河院に伝送した事で、頼朝の対面上により院から籠居を命じられている。
後白河院にとって頼朝の憤りと恫喝のような申し入れに対し認めざるを得ない状況であった事が窺える。しかし、治承四年の両者による妥協的宣旨であった「寿永二年十月宣旨」以降の二年間、治政と徴税が安定してきたこと、そして頼朝の軍事力に頼らざるを得なかったのは事実である。そしてこの日に頼朝は、「駅路の法」を定めた。重大事により上洛する御使いや雑色等が伝達事項を早急に行えるよう伊豆・駿河から西の近江まで、権問の庄園であるか否かにかかわらず、駅を整備し御使いや雑色等馬や糧食を提供するように定めた。従来十日以上かかる道程を早馬で五日から七日程で伝えることが出来るようになった。
「文治の勅許」は、時限立法的要素を持つ「寿永二年十二月宣旨」とは違い、公に認められた法であり、文治の勅許により鎌倉幕府が成立したと認識する説もある。幕府が守護・地頭の任免権と解任権を有し、全国を治安維持する警察権と徴税権、そして御家人の新恩賞としての職種を得た。朝廷は、圧倒的な軍事力を認めざるを得なかったのかもしれないが、その軍事力により後白河院及び朝廷、そして貴族と寺社仏閣の荘園の安定を担保したともいえる。また、地頭が徴税権を持ち収穫物の割合に応じて一部を受け取ることが出来た為、農業政策が進み、収穫量も増大した。しかし後白河院は、これ以上の頼朝の軍事力拡大に脅威を覚えていたと考える。頼朝に奥州合戦の宣旨を与えなかったことや、奥州を平定した後の恩賞で征夷大将軍の官位を与えなかったことは、それを裏付ける物だったかもしれない。また、頼朝は、平家追討において弟範頼が九州遠征の際に兵糧獲得に苦労したことに対処するため各国及び地域に兵糧米として徴収できるよう定めている。先述したように、この勅許により鎌倉幕府創立と考える事もでき、東国武士が西国の朝廷より勝ち取った権力の一部ではないかと考えられるが、東国武士の独立への思考は、頼朝の守護・地頭という新恩給付によりすり替えられたとも考えられる。しかし、武士の権力は世情において徐々に浸透、拡大して行った事に間違いない。その後、従来よりも安定した徴税及び年貢の搬送が行われ、朝廷は頼朝の信認度を強めることになり、幕府と朝廷の協調路線の継続を強固なものとしていった。後白河院崩御して間もなく朝廷に征夷大将軍の官位を与えている。
幕府が御家人の「御恩と奉仕」において御恩は、所領支配を保証する本領安堵と所領を与えることであった。文治の勅許で得た全国の守護・地頭の設置は、御家人に直接的な所領の支給ではなかったが、御家人にとっては、所領の支給と同様の事であり、新恩給与を守護・地頭への補任によって行われ、奉仕は軍事力の提供と安定した所領経営に変わり、幕府の体制が確立したと言える。安定した守護・地頭の経営が成されなかった場合、幕府により解任されることもあり、その運営能力も御家人にとっては重大な責務となる。当初は、頼朝配下の御家人の地頭の公認について荘園領主・国司の反発があり、地頭の設置は平家旧所領の平家没官領や謀反人所領に限定されている。しかし、建久三年(1192)に後白河法皇が崩御すると朝廷の抵抗は弱まり、地頭の設置範囲は次第に広がっていった。 ―続く