平家追討時に源頼朝は東国から動かなかった。そして、動かなかったことは功を奏した。奥州藤原氏を牽制する為には頼朝が鎌倉から動けなかった。しかし、平家追討を弟の範頼、義経が多大な働きを行う事で、頼朝は動かず、人の目に触れず存在感はより一層大きくなった。
頼朝は自身の推挙なしに朝廷より官職に任官をした御家人に対し非難する。朝廷の任官は、東国武士との主従関係で秩序の崩壊を唱えた。官職に任官されたものは在京して守衛の役を務めるよう命じ、墨俣以降の下向を禁ずる。その中には梶原景季、八田知家、小山朝政も含まれていた。源範頼は鎮西にいたため任官を受けず、三浦義澄や挙兵時以来の古参の御家人は受けていなかった。この頃、古参の一人の梶原景時の義経の行動についての讒言が鎌倉に届く。頼朝は、任官を受けた義経への疑念を深めるばかりであったと考える。
写真:ウィキペディアより引用 『安徳天皇縁起絵図』赤間神宮所蔵)
『吾妻鏡』文治元年(1185)四月二十一日条には、「判官殿(義経)は君の御代官として御家人達を副えて派遣され、合戦を遂げられました。ですから、(義経は)しきりに自分一人の功績によるものと考えていますが、すべては多勢の合力がってのことです。多勢というのも、人々は皆判官殿のためを思っていたのではなく、君を仰いでいたからこそ、心を一つにして功績をあげ、平家を滅ぼしたのですが、その後の判官殿の様子はほとんど日頃の状態を超えていて、兵士たちは薄氷を踏む思いを致しています。全く心から(義経に)従う思いを持ち合わせていません。特に景時は御所でおそばに仕え、特に厳命をうかがい知っていましたので、その道理に反した行動を見るにつけ、関東(頼朝)の御意向に背いている、と諫め申しましたが、諫めの言葉はかえって身の災いとなり、ともすると刑罰を受けかねない状況です。合戦が無事に終えた今、(義経に)伺候している理由はございません。早くお許しを得て帰参したいと思います。」という内容であった。
(写真:鎌倉市梶原 御霊神社)
源義経と梶原景時の関係は、『平家物語』屋島に赴く際の逆櫓の件や、二月二十二日にも見られ、梶原景時が二百余艇の舟を伴い志度合戦が終わった後に屋島に着いたと記される。その記述に「「西国はみな九朗大夫判官に攻め落とされた。今となってはなんの間に合おうか、法会に供えるべき花が、六日の菖蒲よ(五月五日の端午の節句に必要な勝負は、六日になっては役立たず)、諍い果ててのちぎりきかな(喧嘩が終わってから棒を持ち出す様な物だ)」とぞ笑いける。」とある。また、三月二十四日の壇ノ浦開戦の日、景時が義経に、先陣の所望をした。
「今日の先陣を景時にたまわりたい」
「義経がなくはこそ(義経がいないのならともかく、いる以上は認めがたい)」
と義経は認めなかった。景時はさらに、
「まさなう候(見苦しい)。殿は大将軍にてこそましまし候へ(大将軍でございますぞ)」
義経は冷静を装いながら答えた。
「思いもよらず(思ってもみない事だ)、鎌倉殿こそ大将軍よ。義経は奉行をうけ給わったる身なれば、ただ殿原(皆と)と同じことぞ」
景時は、愚弄と思われるつぶやきを放った。
「天性この殿は、侍の主にはなりがたし」と。義経はそれを聞き、顔色を変え言い放った。
「日本一のこの物かな(日本一の愚か者)」。そして義経は、すぐさま太刀の柄(つか)に手をかけると、景時も太刀の柄に手をかけた。
「鎌倉殿の他に主を持たぬ物を(頼朝殿だけが自分の主君であり、他の物から叱責され「おこ(愚か者))呼ばわりされるいわれは無い」と反発し、景時の子息・景季、景高、景家は景時に寄合い、義経の従臣の佐藤忠信、伊勢義盛、源八広綱、江田源三、熊野太郎、武蔵坊弁慶などの津和共共は義経の気配を見て景時を取り囲み、がわが討たんとする気配を見せる。三浦義澄が義経にとりつき、土肥実平が景時にとりつき二人に申した。
「これほどの大事を、前にかかへながら同志、戦候ば、平家力つき候なんず(平家は力づきます)。就中鎌倉殿のかえり聞かせ給はん処こそ穏便ならず候へ(とりわけ鎌倉殿が伝え聞かれましたならば穏やかではありません。只では済みません)」。
義経は、義澄、実平の言葉で静まり、また景時もそれ以上には及ばなかった。
この時期、先述したが景時は範頼に従い長門国の彦島後方におり、地上での平家追討に就いている。『源平盛衰記』では、範頼軍は千葉常胤らと共に三万余騎が布陣し、退路を塞ぎ岸から遠矢を射て義経軍を支援したとある。『平家物語』では、和田義盛が馬に乗り渚から沖に向け遠矢を二、三町(二、三百メートル)も射かけたとあり、壇ノ浦での水上戦にも範頼の軍勢は加わっていないことになる。『吾妻鏡』においても範頼の軍勢が加わった記述は無い。従って、『平家物語』『源平盛衰記』の義経と景時のやり取りは、作者による曲筆であったとみられる。しかし、義経と景時には何らかの確執はあったと思われ、この『吾妻鏡』の義経の行動を景時が讒言した事は事実であったと思われる。
義経が捕縛した平宗盛親子を連れ鎌倉に向かうが、源頼朝はこの頃から、一層の義経への疑心・疑念が深まり、東国武士に対し、義経に従わないよう内々に指示しており、「義経は鎌倉に入ることを禁ず」と命令が出された。腰越から中原(大江)広元に送り頼朝への取り成しと、わび状を添えて依頼するが、頼朝は答えを出さなかった。文治元年(1185)六月九日、義経は頼朝の拝謁もなく宗盛、重衡を連れ京都に向かった。帰洛の際「関東において恨みを成す輩は、義経に属すべき」と言い放ったと『吾妻鏡』では記載されている。しかし、その事の成り行きはきされず不明と言ってよい。頼朝は多大な功績を示した義経を恐れ、義経は武士の棟梁として立つ頼朝の立場を理解出来る事は、この先もなかった。頼朝は中原広元、藤原利兼が奉行させ、義経に分与した平家没官領をすべて没収させる。
京に戻った義経は御白河院に京を守護する立場上、頼朝追討の官符を奏請し、院は義経に頼朝追討宣旨を下す。義経は、院宣を得て京で頼朝討伐の旗を挙げるが賛同するものは少なかった。頼朝は義経・行家を征する為に上洛の準備を始め同年十月二十九日に鎌倉を出た。義経、行定は鎌倉の追跡を逃れるため鎮西に向い、白河院・朝廷から義経が伊予の守・検非違使の任官を解かれ、再度義経追討の宣旨を出した。義経・行家は西海に赴くが、大物浜で悪風に遭い渡海を止める。頼朝が今回の対処に悩んでいた時、義経・行家が京を出たことを知り、上洛を取りやめた。取り止めの理由に中原広元は叛逆があるたび東国武士が遣わされたのでは、迷惑になり、国衙、荘園なりの守護、地頭に補任すれば恐れる事は無く、朝廷に守護、地頭の設置を申請すべきとの提案が示された。同年十一月二十五日、頼朝はその提案に感心し、大江広元の献策に従って北条時政に命を出して京に向かわせた。
大江広元の献策に従って時政に命を出し、千騎の兵を率いて上洛する。後白河院に頼朝の憤怒を告げて師中納言(そちのちゅうなごん)藤原経房を通じ、義経経派の公家を解官させ、義経追補の為「守護・地頭の設置」(文治の勅許)を得る事に成功した。また、北条時政は頼朝と広元が画策する権門勢家の荘園・公領を問わず、諸国に等しく守護地頭の設置を置く困難な折衝に後白河法皇を相手取り勅許を取り付けた。狸同士の化かし合いのようであるが、この功績は大きく、この勅許で鎌倉幕府の成立と考える事もできる。そして、義経・行家を捜索すべく院宣が下る。十二月六日、義経派の公家を解官させ、九条(藤原)兼実を内覧宣旨等に下す書状を院に奏上した。義経は院宣が下りた京に戻る事が出来ず、奥州藤原氏を頼り向かった。途中吉野で別れた妾静が蔵王堂で捕らえられる。義経は元暦元年九月に河越重頼の娘を正妻にし、娘を儲けていた。義経親家族三人と従者と共に厳しい追討の中、山伏姿で伊勢、美濃を経て奥州にたどり着いた。文治二年(1186)五月十二日には、和泉国に潜んでいた源行家が討ち取られた。 ―続く