坂東武士と鎌倉幕府 六十九、義経の挙兵 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』文治元年(1185)十月十三日条にて、義経が密かに仙洞御所の後白河院に参り、

「備前守(源)行家が関東に背き謀叛を企てました。その理由は、行家のみを誅せよとの鎌倉二位卿(源頼朝)の命令が行家の耳に届いたので、難の過ちがあって無実の叔父を誅するのかと憤ったものです。義経は頻(しきり)に制止しましたが、一向に聞き入れられません。それに、義経もまた平氏の凶悪を退けて、世の中に静けさを取り戻しました。これがどうして大切でないことがありましょうか。それなのに二品(頼朝)は全くそれを報いようともせず、たまたま義経に計らい宛てられていた所領等も全て改変したばかりか、義経を誅殺せよと企てているとの噂もあります。義経はこの難を逃れるためにすでに行家と手を結びました。この上は頼朝追討の官符を賜りたい。勅許がなければ両人とも自害するつもりです。」と奏聞した。院は、「よくよく行家の鬱憤をなだめるように」と答えたという。

 

 私見であるが行家は、平家追討に対し共に与する者とは手を結び、自己顕示欲が高く、私利私欲に長けた人物で好感を得られることは少ない。この事が事実ならば、冷静に源行家を見てみれば、頼朝に対する謀反人と言い難い。しかし頼朝にとっては、今は行家が朝廷に近く、以仁王の平家討伐の宣旨を頼朝に持ち込み挙兵を促している点、先人の勲功は大きく、目の上のたん瘤である。また道義上、木曽義仲の軍勢の洛中での乱行を制止する事も出来なかった事と、行家の挙兵時に墨俣で平家に敗れた際に頼朝の異腹弟(義経と同腹)の義円を誘い、敗死させた事は、頼朝にとっての行家を恨む大義名分になる。


  

 同月十六日にも義経は頼朝追討宣旨を要求し、勅許が得られなければ暇を乞い、天皇・法皇・公卿を連行し鎮西に下向するとほのめかした。翌十七日頼朝から義経誅殺の命を受けた土佐房昌俊が、六十余騎を伴い義経の堀川邸(六条室町邸)を襲う。義経の家人は少数であったが、義経は佐藤忠信らを率い自ら打って出て戦うと、その知らせを受けた行家が後方から加わり義経と共に防戦した。昌俊は退散するが義経家人が追い求め、鞍馬山で捕らえられて二十六日六条河原で梟首されている。通説では、この襲撃を頼朝の命であることを捕らえた昌俊から聞き出したとされる。しかし、義経が襲撃を知らされていたというせつもあり、昌俊の鎌倉から京への行程を九日と定められた点には疑問が残る。十三日に後白河院に依頼した義経の頼朝追討宣旨は、「義経を誅殺せよと企てているとの噂もあります。」と『吾妻鏡』に記されており、この襲撃を知り得ていたとして、それに先駆けて宣旨の依頼をした。そして堀川夜襲においては、義経が知り得ていたため迎撃態勢を取っていたとする説である。また昌俊の堀川夜襲は、頼朝の命であることを聞き出したとされるが、『吾妻鏡』、延慶本『平家物語』にその記述はく、真実は定かではない。しかし頼朝と義経の対応については判官贔屓の者以外でも非常に興味がもたれる説がおおく提示されている。

 
 同月十八日に義経が言上した頼朝追討の事で朝廷での評議が行われた。

「今のところ義経以外に朝廷を警護する者もおらず勅許を与えなければ義経が狼藉を行うかもしれない。この難を逃れるために頼朝追討宣旨を出して、折ってこの事情を頼朝に説明すれば憤る事はないだろう。」と言う事で義経に宣旨が下されている。この頃、鎌倉の頼朝は勝長寿院・御堂を建立し父義朝の供養を行おうとしていた。京から僧や京を守護する左馬守・一条能保が、同月二十一日に鎌倉に到着する。能保は京の情勢として土佐房昌俊の襲撃の失敗と行家・義経が頼朝追討宣旨を得た事を告げた。しかし頼朝は全く動揺せず、御堂の供養の準備に専念したという。

同月二十四日、勝長寿院で供養が行われ、その警護に就いた多くの御家人は、頼朝の臣下の錚々たる武士の面々であった。このため義経に賛同する勢力は京にほとんどおらず、また京周辺の武士達も義経に与する者もなく、逆に敵対する者も現れた。頼朝は供養が終わり次第、和田義盛、梶原景時を召して言った。

「明日、上洛する。軍士たちを集めてその名を記せよ。この内、明け方にも出発できるものはいるか。別にその名を注進せよ。」深夜になり、おのおのが申し立てていった。

「参集した御家人は(千葉)常胤以下主だったものが二千九十六人です。その内直ぐに上洛できると申すものは(小山)朝政・朝光以下五十八人です。」と申した。この人数は御家人数のため、一人当たり十から二十の従う騎馬従者があったと推測されるので、三万から六万騎の軍勢が集結することになる。

 

(写真:鎌倉 勝長寿院跡)

 同月二十五日、日が登りかけた早朝、「先ず尾張・美濃に着いたならば、両国の住人に命じて、足近・墨俣などの渡しを固めさせよ。その御供に入京し、真っ先に行家・義経を誅伐せよ。決して遠慮する事はない。もしも両人が洛中にいなければ、暫く(頼朝の)御上洛を待つように。」と命じ、上洛を了承した勇士たちに遣わされた。勇士たちは、みな鞭を挙げて出発したという。 

同月二十九日、頼朝は、軍を率いて義経追討のため鎌倉を出立し、翌月十一月一日に黄瀬川で逗留し事態の経過を見定めていた。

文治元年(1185)十一月三日、与する軍兵の少ない義経は、西九州の緒方氏を頼り、西国で体勢を立て直すため三百騎で京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱・豊島冠者等の襲撃を受けたが、これを突破し、同月六日には、摂津国大物浦から九州へと船団を組み船出しようとしたところ、途中暴風雨に遭遇し、難破したため主従散り散りになり摂津に押し戻される。そして七日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解官された。義経は鎮西に向かうことが出来ず、京にも戻れず、逃亡の途に就くことになる。同月七日には、去る三日、行家・義経が京を落ちたとの知らせが黄瀬川に逗留する頼朝に入り、黄瀬川を発ち鎌倉に戻った。同月二十五日には、院・朝廷は行家・義経を探索・捕縛の院宣が諸国に下された。

  

 頼朝は後白河院と朝廷に対し、今回の頼朝追討の宣旨を出した件と引き換えに、義経追補の為の全国に「守護・地頭」の設置を朝廷に認めさせるために、北条時政に千騎を率いて上洛させた。文治元年(1185)十一月二十八日に諸国に均しく守護・地頭を補任し、権問勢家の庄園・公領を問わず、反別五升の兵糧米を充て課すことを藤中納言経房に申し入れる。その申し入れは、後白河院が義経に頼朝追討の宣旨を出した責任を問う脅迫的な交渉であったとされ、翌二十九日に後白河院は申請通りに藤中納言経房に勅命を時政に伝えさせ文治の勅許が下された。また、朝廷内で院の独裁を掣肘するために院近臣の解官、議奏公卿による朝政運営、摂政である藤原基通から藤原忠通の三男・兼実を摂政に推挙して、内覧宣下を柱とする朝堂改革要求を後白河院に突き付けた。摂政に九条兼実が就いている。 ―続く