木曽義仲の軍勢は養和元年(1181)六月十日に越前国、十三日には近江国へ入り、京への最後の関門になる延暦寺との交渉を始めた。安田義定等の源氏武将も都に迫り、源行家の伊賀方面から摂津国の多田行綱も摂津・河内を抑え平家の補給路を断つ動きを見せた事で、平家は京を捨て、安徳天皇、皇太子の守貞親王と三種の神器を擁して西国に退いた。後白河院は危機を察し、比叡山に逃れている。
養和元年(1181)年七月二十七日、木曽義仲は数万の兵を率い京に入った。翌二十八日、義仲は行家と蓮華王院に参上し、平氏追討の宣旨が下される。その宣旨の際、義仲と行家は席次を巡り反目して並列していたと言う。同月三十日、公卿議定が開かれ、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三は行家と言う順位が確認され、それぞれ位階と任国が与えられ、また義仲には、京の治安維持を行うよう命じられた。義仲の軍勢は混成軍の烏合の衆であり、兵糧もなく、入京後、乱暴狼藉を働く。義仲も擁護する以仁王の遺児である北陸宮を皇位に付けるため後白河院と皇位継承をめぐって対立した。
摂関の九条兼実が『玉葉』八月十四日条にて「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」と記し、武士等の「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくることを不快と記している。そして、寿永二年八月二十日、四之宮(尊成親王)が践祚(せんそ)された。この一件は、伝統と格式を重んじる朝廷から木曽義仲を宮中の政治・文化・歴史への知識・教養が無い「粗野な人物」として疎まれる最大の要因だったと考えられる。
(写真:ウィキペディアより引用 後白河院像 木曽義仲像)
京及び畿内では、養和の大飢饉で食糧事情が極度に悪化していために兵糧を集める事も出来ず、京に留まる義仲の混成軍により都やその周辺での略奪行為が横行した。治安維持は近江源氏・美濃源氏・摂津源氏及び沿道の武士の混成軍であるために義仲では統制できる状態ではなかく、皇族・貴族の間にも略奪の恐怖と危機感が迫り、民衆も恐怖し、人々の心は義仲から離れていった。傍若無人な義仲に見切りを付けた後白河院は「天下静かならず。又平氏方面、毎事不便なり」と責める。義仲は自身の立場の悪化を自覚して平氏追討に向かう事を奏上し、院は自ら剣を与えて出陣させた。都落ちした平家一門は、福原、太宰府と逃れるが、太宰府においても留まることが出来ず、讃岐国の屋島に向かっている。屋島に入り、山陽道八ケ国、南海道六ケ国、合せて十四ケ国を討ち取り再び京への上洛の勢力を整えつつあった。義仲は腹心の樋口兼光を京に残し、失った信用の回復や兵糧の確保のため播磨国へ出陣する。
(写真:鎌倉 鶴岡八幡宮)
『玉葉』十月二日条に、義仲の出陣と入れ替わるように朝廷に源頼朝の申し状が届く。その内容は、
「平家横領の神社仏寺領の本主への返還」
「平家横領の院宮所化量の本種への変換」
「降伏者は斬罪にしない」という物で、「一々の申し状、義仲等に斉しからず」と義仲等には適用されないと打ち消しており、朝廷を大いに喜ばせるものであった。そして『百錬抄』において、院は十月九日、頼朝を本位に復して赦免し、十四日には寿永二年十月宣旨を下し、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与えた事を記している。
同年閏十月一日、木曽義仲は、備中国水島(岡山県倉敷市玉島)にて平家の軍勢に挑む。平家勢千艘に対し源氏勢五百艘、七千騎であった。『平家物語』第八巻「水島合戦」において、北国での地の利を生かした木曽義仲との戦に敗れた平家は、水島合戦にて船戦を得意とする平家が雪辱した戦いであった事を示している。平家の大手の大将に平知盛と重衡が就き、搦め手の大将に通盛と教経(平清盛の弟教盛の嫡男と次男)が就いた。平家勢は、味方の船を連結して、千余艘がとも綱・へずなを組み合わせ、舟を岸とにつなぎとめる綱のもやいを入れ、歩く事の出来る渡板を引きわたし渡ったので、舟の上は平にして戦うことが出来た。船戦(ふないくさ)を知らない義仲勢は足利義長、海野幸広、高梨高信、仁科盛家といった諸将を失い壊滅的打撃を受けた。なお、『源平盛衰記』等の資料にて、この戦の最中に九十五パーセントほど欠けた金環日食が起こっており、平家が公家と共に歴を作成していた事から、日蝕を戦に生かしたとの説もある。
(写真:ウィッキペディアより引用 水島 良寛壮付近から見た玉島港)
戦線が膠着する中、『玉葉』閏十月十七日条にて、義仲に頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率い上洛する情報が入った。また、その情報を伝えたとするのが藤原秀衡であると伝えている。驚いた義仲は、平家との備中水島の戦いで惨敗しながら、平家との戦を切り上げ、同月十五日に少数の軍勢を率い帰京した。平家は、この勝利により軍の士気が高まり、後の源頼朝の木曽義仲の討伐の間に勢力を回復し再入京を企て摂津福原まで進み、一の谷の戦いを迎えることになる。
義仲は、同月二十日に帰京し、君を怨み奉る事二ヶ条として、源頼朝に上洛を即した事、頼朝院宣を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」である俊後白河院に激烈な高誼をしている。そして義仲は頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給と志田義広の兵士追討氏への起用を要求した。義仲の源氏一族の十九日の評議では法皇を奉じ関東に出陣する案が出されたが、源行家と土岐光長の猛反対に会い、また二十六日には、興福寺の衆徒に頼朝討伐の命を下したが衆徒が承引しなかった。
木曽義仲の敵は、すでに平家では無く、頼朝に替わっていたが、義仲の指揮下にあった混成軍は凡解状態となり義仲と行家の不和も公然の事とされる。義仲に付き従う者は、従来の木曽衆と志田義広だけであった。 ―続く
木曽義仲の軍勢は養和元年(1181)六月十日に越前国、十三日には近江国へ入り、京への最後の関門になる延暦寺との交渉を始めた。安田義定等の源氏武将も都に迫り、源行家の伊賀方面から摂津国の多田行綱も摂津・河内を抑え平家の補給路を断つ動きを見せた事で、平家は京を捨て、安徳天皇、皇太子の守貞親王と三種の神器を擁して西国に退いた。後白河院は危機を察し、比叡山に逃れている。
養和元年(1181)年七月二十七日、木曽義仲は数万の兵を率い京に入った。翌二十八日、義仲は行家と蓮華王院に参上し、平氏追討の宣旨が下される。その宣旨の際、義仲と行家は席次を巡り反目して並列していたと言う。同月三十日、公卿議定が開かれ、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三は行家と言う順位が確認され、それぞれ位階と任国が与えられ、また義仲には、京の治安維持を行うよう命じられた。義仲の軍勢は混成軍の烏合の衆であり、兵糧もなく、入京後、乱暴狼藉を働く。義仲も擁護する以仁王の遺児である北陸宮を皇位に付けるため後白河院と皇位継承をめぐって対立した。
摂関の九条兼実が『玉葉』八月十四日条にて「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」と記し、武士等の「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくることを不快と記している。そして、寿永二年八月二十日、四之宮(尊成親王)が践祚(せんそ)された。この一件は、伝統と格式を重んじる朝廷から木曽義仲を宮中の政治・文化・歴史への知識・教養が無い「粗野な人物」として疎まれる最大の要因だったと考えられる。
(写真:ウィキペディアより引用 後白河院像 木曽義仲像)
京及び畿内では、養和の大飢饉で食糧事情が極度に悪化していために兵糧を集める事も出来ず、京に留まる義仲の混成軍により都やその周辺での略奪行為が横行した。治安維持は近江源氏・美濃源氏・摂津源氏及び沿道の武士の混成軍であるために義仲では統制できる状態ではなかく、皇族・貴族の間にも略奪の恐怖と危機感が迫り、民衆も恐怖し、人々の心は義仲から離れていった。傍若無人な義仲に見切りを付けた後白河院は「天下静かならず。又平氏方面、毎事不便なり」と責める。義仲は自身の立場の悪化を自覚して平氏追討に向かう事を奏上し、院は自ら剣を与えて出陣させた。都落ちした平家一門は、福原、太宰府と逃れるが、太宰府においても留まることが出来ず、讃岐国の屋島に向かっている。屋島に入り、山陽道八ケ国、南海道六ケ国、合せて十四ケ国を討ち取り再び京への上洛の勢力を整えつつあった。義仲は腹心の樋口兼光を京に残し、失った信用の回復や兵糧の確保のため播磨国へ出陣する。
(写真:鎌倉 鶴岡八幡宮)
『玉葉』十月二日条に、義仲の出陣と入れ替わるように朝廷に源頼朝の申し状が届く。その内容は、
「平家横領の神社仏寺領の本主への返還」
「平家横領の院宮所化量の本種への変換」
「降伏者は斬罪にしない」という物で、「一々の申し状、義仲等に斉しからず」と義仲等には適用されないと打ち消しており、朝廷を大いに喜ばせるものであった。そして『百錬抄』において、院は十月九日、頼朝を本位に復して赦免し、十四日には寿永二年十月宣旨を下し、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与えた事を記している。
同年閏十月一日、木曽義仲は、備中国水島(岡山県倉敷市玉島)にて平家の軍勢に挑む。平家勢千艘に対し源氏勢五百艘、七千騎であった。『平家物語』第八巻「水島合戦」において、北国での地の利を生かした木曽義仲との戦に敗れた平家は、水島合戦にて船戦を得意とする平家が雪辱した戦いであった事を示している。平家の大手の大将に平知盛と重衡が就き、搦め手の大将に通盛と教経(平清盛の弟教盛の嫡男と次男)が就いた。平家勢は、味方の船を連結して、千余艘がとも綱・へずなを組み合わせ、舟を岸とにつなぎとめる綱のもやいを入れ、歩く事の出来る渡板を引きわたし渡ったので、舟の上は平にして戦うことが出来た。船戦(ふないくさ)を知らない義仲勢は足利義長、海野幸広、高梨高信、仁科盛家といった諸将を失い壊滅的打撃を受けた。なお、『源平盛衰記』等の資料にて、この戦の最中に九十五パーセントほど欠けた金環日食が起こっており、平家が公家と共に歴を作成していた事から、日蝕を戦に生かしたとの説もある。
(写真:ウィッキペディアより引用 水島 良寛壮付近から見た玉島港)
戦線が膠着する中、『玉葉』閏十月十七日条にて、義仲に頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率い上洛する情報が入った。また、その情報を伝えたとするのが藤原秀衡であると伝えている。驚いた義仲は、平家との備中水島の戦いで惨敗しながら、平家との戦を切り上げ、同月十五日に少数の軍勢を率い帰京した。平家は、この勝利により軍の士気が高まり、後の源頼朝の木曽義仲の討伐の間に勢力を回復し再入京を企て摂津福原まで進み、一の谷の戦いを迎えることになる。
義仲は、同月二十日に帰京し、君を怨み奉る事二ヶ条として、源頼朝に上洛を即した事、頼朝院宣を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」である俊後白河院に激烈な高誼をしている。そして義仲は頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給と志田義広の兵士追討氏への起用を要求した。義仲の源氏一族の十九日の評議では法皇を奉じ関東に出陣する案が出されたが、源行家と土岐光長の猛反対に会い、また二十六日には、興福寺の衆徒に頼朝討伐の命を下したが衆徒が承引しなかった。
木曽義仲の敵は、すでに平家では無く、頼朝に替わっていたが、義仲の指揮下にあった混成軍は凡解状態となり義仲と行家の不和も公然の事とされる。義仲に付き従う者は、従来の木曽衆と志田義広だけであった。 ―続く