治承四年、西日本一帯は降水量が少なく、翌年の養和元年(治承五年:1181年)の養和の大飢饉が起こり、この飢饉が平家に対する人々の不満が募り、治承・寿永の乱の勃発になった要因の一つとして考えられる。後白河院及び朝廷、貴族、寺社は年貢が滞り、都及び周辺の食糧事情が窮迫していた。
源頼朝は朝廷への申し状を送り、その内容は「平家横領の神社仏寺領の本主への返還」、「平家横領の院宮所化量の本主への変換」、「降伏者は斬罪にしない」という物で、「一々の申し状、義仲等に斉しからず」と義仲等には適用されないと打ち消しており、朝廷を大いに喜ばせるものであった。この背景には、木曽義仲が入京して行われた論功行賞は、頼朝の政治交渉が功を奏して勲功第一は頼朝、第二が義仲、第三が源行家と定められ、義仲、行家は受領任官を受けたが、頼朝だけは官位の復帰も与えられず謀叛人のままであった。頼朝はこの時政治的な窮地であったと考えられる。自身が、今後に東国・坂東の武士たちを動かすためには、以仁王の令旨ではなく、正当性を示す後鳥羽院の宣旨が必要だった。
頼朝は、謀臣と決められた平氏と、上洛を先に越された木曽義仲を意識しながら、政治工作としての後白河院及び朝廷の貴族社会への協調を示す内容を示す徳政の申し入れであった。朝廷は、天慶の乱での平将門のように東国の新皇としての独立及び完全支配を恐れるが、この申し状は、後白河院及び朝廷にとっては、昨年からの食糧事情の窮迫と、さらに平家の西国へ退いたことでの西国からの年貢の停滞。また、後白河院及び朝廷の貴族社会頼朝はが、木曽義仲の対応に苦慮する中で、頼朝による軍事力を用い、従来通り年貢が納められること事と義仲の対応の打開策であった。朝廷は、傍若無人な義仲に見切りを付けた後白河院は源頼朝に院宣を下し、接近を計る。寿永二年(1183)十月十四日に平治の乱以降、朝敵であった頼朝の本位への復帰を認め、「寿永二年十月宣旨」の発令を行う。その内容は、東海道と東山道の荘園・公領を領家・国司に従わせ、元の通りに年貢を納めさせるとともに、この命に服さないものは頼朝に沙汰し処置させることを命じたものである。
この宣旨の獲得は、頼朝の功名な政治手腕であり、東国・坂東で基盤を固め軍勢の拡充の末、最後に乗り出してきたのである。その宣旨の伝える原文は残されていないが『百錬抄』及び『玉葉』によりその要旨が伝えられている。
『百錬抄』寿永二年十月十四日条、
「東海・東山諸国の年貢、神社仏時並びに王臣家領の庄園、元の如く家領に随うべきの由、宣旨を下さる。頼朝の申し行いに依るところ也。」
『玉葉』寿永二年十月十三日条、
「東海・東山・北陸道の庄園・国領、本の如く領地すべき由、宣言せられるべきの旨、頼朝申し受けう。北陸道ばかり義仲を恐れるにより、その宣旨をなされず。頼朝これを聞かば、定めて鬱を結ぶか。甚だ不便の事なり。」小槻隆職からの伝聞を帰している。さらに同月二十二日条には
「また聞く。頼朝の使い、伊勢国に来しといえども謀叛の義にあらず。先日の宣旨に言う。「東海・東山道等の庄土、服さざるの輩あらば、頼朝に触れて沙汰を致すべしと云々」。よってその宣旨を施行せんがため、かつ国中に仰知らせしめんがために、使者を遣わすところ也と云々。」
『平家物語』では、第八巻征夷大将軍の院宣として、物語を明確にするために寿永二年十月宣旨を征夷大将軍院宣に曲筆されている。
要するに朝廷は、この宣旨により東国から誰が年貢を納めようが、元通り領家・国司に従って拠出されさえすれば良いだけで、誰が荘園の下司、公領の郡郷司を勤めようが関知はせず、年貢の収納のみを伝えながら、挙兵以来の頼朝の荘園に対する違法行為を普門にした。さらに年貢の収納のために前例のない東海道と東山道の東国において頼朝に行政権と警察権を与える。さらに不満分子に対する強制力の行使を頼朝にゆだねた。しかし、この宣旨は時限立法的な要素を持つため、後の文治の勅許、そして征夷大将軍として朝廷との協調路線の公武体制を構築する頼朝は、その後の武士の権力の拡大に力を注ぐ。
本宣旨により既存の国家権力である朝廷から公権である東国行政権(国衙在庁指揮)を付与された事で、東国国家の存在として鎌倉幕府が成立したとする説も提唱されている。また、一時的に東国を失った朝廷は本宣旨により頼朝を用い東国を回復したとする説がある。また一方、独立した権力を構築しようとした東国政権にとっては、朝廷によって東国政権を併合され権力構築に後退させた物ととらえる説もある。東国独立論を強く主張したとされる平広常が十二月に暗殺されたことが頼朝の政権路線を朝廷協調論に変更したともされる。
私見であるが、この宣旨は頼朝の申し状から始まり、頼朝にとっては、この時期、木曽義仲に上洛を先に越され、政治的窮地であったと考えられる。頼朝自身と東国支配の正当性を獲得するための朝廷との協調路線を示すための物である。また朝廷は、都及び周辺の窮迫する食糧事情の打開策として、東国からの年貢の獲得を目指した物である。さらに後白河院にとっての平家に対する恨みを果たすため、そして苦慮する木曽義仲の問題に対し頼朝の軍事力を持って対抗しようと試みる両者の妥協的宣旨であった。東国・坂東武士の独立志向は高かったと考えるが、武士達は朝廷を倒して手に入れる物では無く、朝廷の権威を利用しながら自身の所領の安堵を願っていたものと考える。富士川の戦いの勝利に乗じ上洛を試みようとした頼朝に対し、坂東の地の安定を優先させることを進言した千葉常胤、上総広常や三浦義澄の真意はここにあった。後に東国独立論者として、また上洛反対派とされた上総広常は、謀反の嫌疑をかけられ同年十二月に梶原景時により暗殺されるが、後に無罪が証明される。しかし、その所領は頼朝の御家人達に分け与えられている。富士川の戦い後のすぐに行われた論功行賞においても、御家人に所領を与えることで、坂東武者に上洛の恩恵を示す事であった。頼朝は京育ちであったため世情の本質を知りえていただろう。当初から朝廷の存在と権威により自身の存在を明確にすることを考えていたと見る。そのため、木曽義仲・平家討伐により朝廷に自身を認めさせ、東国・坂東の武士達の頂点に立つことを目指していた。幕府も鎌倉に置き、朝廷の権威を示しつつ、東国・坂東の地が朝廷の影響を受ける事を最小限に止めたのであろう。
そして、この宣旨による頼朝の復権と公認は、後白河院にとって武士の棟梁を源頼朝とし、木曽義仲を見限った宣旨として捉えることが出来る。治承・寿永の乱は、後白河院の鹿ヶ谷の陰謀から始まり、後白河院の軽薄な謀略により平家、木曽義仲、源義経を時代の流れに翻弄させた。そして義経に頼朝追討宣旨を出し、頼朝が京に攻め込む気配を示すと、再び頼朝に義経追討宣旨を出すなど日和見的な政策を展開した。後白河院の子・神器亡き天皇である後鳥羽院にもその謀略の血が受け継がれ、後に承久の乱を引き起こし、隠岐島に配流され、因果応報「親の因果が子に報い」と京に戻ることなく、隠岐の配所で崩御する。
源頼朝は、宣旨が下され、宣旨施行のためと称し、弟の源義経を伊勢に向かわせ、そこを拠点として、弟の範頼・義経を京に向かわせた。 ―続く