志田義広の鎌倉への侵攻は、木曽義仲と連携し、北関東の東山道沿いに点在する反頼朝勢の結集を目指す計画的なものとする説(本郷和人氏の説)がある。義広の敗退により北関東の東山道沿いの下野国南部から東上野、下総北部に影響を持つ藤姓足利氏の没落により、この地の反頼朝勢力が駆逐され、頼朝に与する武士が増える結果となった。野木合戦の合戦日時により解釈が大きく分けられる。寿永二年三月上旬に源頼朝と木曽義仲が不仲になり、武力衝突寸前となる。『平家物語』では、義仲は一日でも早く平家を討伐するため、自身は東山道・北陸道から平家討伐を行い、頼朝には関東八ヶ国の武士を率い東海道からの討伐を依頼する使者を送っている。また、その文には「但し十郎蔵人こそ、御辺をうらむることありとて、義仲が許へおわしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事、いかんぞや候へば、うちつれ申したれ。まったく義仲においては、御辺に意趣思い奉らず」と記されている。源行家こそ貴殿が恨む者であるが、義仲の許にいるには、無常に扱う事はどうかと思った事であり、義仲に限り貴殿を恨み思いなど持ってはおりません。と示した。頼朝は釈明に取り合わず、今にも討手が差し向けられると噂されたためであるために、三月上旬に義仲の嫡子義高を人質として鎌倉に差し出し両者の和議が成立している。実際に義仲は、頼朝との協調路線を思索していたのだろうか、また、上洛に雌雄を決していたのだろうか、ここで考えたいのか。義仲は上洛時に沿道の武士たちが糾合し多勢の軍に拡大しているが、当初から計画した物では無い。しかし、関東八国の武士の動向は頼朝に与する状況を知りえていたと考えられる。
源行家の墨俣での平家軍との合戦は、治承五年(1181)三月十日に墨俣の合戦と矢作川の戦いで二度にわたり平重衡率いる平家軍に敗れ、頼朝の弟の義円を死なせた。『吾妻鏡』寿永二年の記載は無く、『平家物語』では、頼朝に直接反抗した志田義広の名は無いため、木曽義仲と志田義広の連携であったかどうかは疑問が残る。富士川の合戦以来、源頼朝と武田信義は武家の棟梁として『玉葉』に併記されていた。頼朝は同格の武家の棟梁の存在を嫌い次第に排除もしくは屈服させる動きに出た。
『吾妻鏡』養和元年(1181)閏三月、「太夫属(たゆうのさかん:三善康信)が書状で次のように申し送ってきた。「去る閏二月七日、後白河院の殿上で議場があり、武田太郎信義に対して、武衛(源頼朝)追討の院庁下し文を下さるべしと定められた。また、諸国の源氏が等しく追討されるのではなく、頼朝だけに限られる。流されている風聞の趣旨はこのようである」。このため(頼朝は)武田に対してご不信を抱かれ、事情を信義に尋ねたところ、駿河国より今日参着した。信義は、「自身は全く追討使を承っておりません。たとえ御命令があったとしても、承諾の返事を提出する事はございません。もともと異心を抱いていない事は昨年来の度々の功績からしても、きっとご存じでございましょう。」と陳謝が再三に及んだうえ、「子々孫々に至るまで、御子孫に対し、弓を引きません。」と起請文を書いて御覧に入れので、御対面となった。この間なお御用心のため、三浦義澄、下河辺行平佐々木定綱、佐々木盛綱、梶原景時を召して御座の左右に控えさせたという。武田は自らの腰刀を取って行平に渡し、頼朝が座を絶たれた後に退出し、腰刀を返してもらったという」。後に子の一条忠頼は元暦元年(1184)六月十六日、鎌倉での宴席で暗殺された。その一方、加賀美遠光に対しては「信濃守任官を朝廷に申請するなどし、それぞれ一族に対しての弾圧と親和策を行い。頼朝挙兵時に同格の武家棟梁であった甲斐源氏は頼朝の御家人という扱いに転じていった。この背景には、頼朝が野木宮合戦で北関東を征した背景が信義にあったと考えられる。やがて頼朝は、次の同格の扱いをされるようになった木曽義仲に対し弾圧の手が向けられた。
木曽義仲は、頼朝の父・義朝の異母弟・源義賢の次男で、頼朝とは従兄弟に当たる。源義朝が東国・坂東で育ち、京に赴いたところ義賢が関東に下向し自身の勢力を築く為に武蔵国の最大勢力であった秩父重隆と結び娘を娶った。しかし義朝との対立により義朝の長子・義平に大蔵合戦で討たれ、当時二歳の義仲(駒王丸)に殺害の明が出される。畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へのがれという。治承五年(1181)養和元年六月、義仲二十八歳になり、小県郡の白鳥河原に木曽衆・佐久衆・上州衆等三千騎を終結させた。越後国から攻め込んできた城助職を横田河原の戦いで破り、越後から北陸道へと進む。寿永元年(1182)に北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王の挙兵を継承する立場を明示した。北陸に進んだ理由として、頼朝と結んだ甲斐源氏の棟梁武田信義の四男・信光が南信濃に進出していたため衝突を避けるため、源氏の勢力が及んでいない北陸に自身の勢力を構築するためであった考えられる。その後、先述した寿永二年の頼朝との不和に対して三月に嫡子義高を人質に鎌倉に差し出し和議が成立した。
同年四月には、平家の京の兵糧の供給地である北陸道の回復のため平維盛を大将に総勢十万(四万)ともされる軍勢が出陣する。越前国で火打城の戦いから勝利した平家は、加賀国に入り連戦連勝の破竹の進撃を続けた。これに対して木曽義仲は、今井兼平に六千の先遣隊を率いさせたて平家の平盛俊による先遣隊が陣を張る越中国の般若野を奇襲(般若野の戦い)する。平家の先遣隊は退き平家の軍勢は越中国と加賀国の境にある俱利伽羅峠(礪波山)の西に退陣した。。
同年五月十一日に木曽義仲は、倶利伽羅峠の戦いで十万ともいわれる平家の軍勢を打ち破り、続いて加賀国での篠原の戦いにも勝利した。勝ちに乗じて北陸道の沿道の武士が糾合し破竹の勢いで京を目指し進軍することになる。しかし、この烏合の衆となる軍勢に対して義仲は後に統制が取れずに崩れ去ることになる。六月十日に越前国、十三日には近江国へ入り、京への最後の関門になる延暦寺との交渉を始めた。右筆の大夫房覚明に諜状を書かせた。
(写真:ウィキペディアより引用 平維盛 木曽義仲(徳音寺所像))
「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦することになる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」という恫喝めいた物であった。これらの諜状や入京後の糾合した軍勢の悪行により義仲の粗暴性が強調されたと言われる。
―続く