坂東武士と鎌倉幕府 四十七、勲功恩賞 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 治承四年(1180)十月二十日、頼朝は東国・坂東武士を引き連れ甲斐源氏の武田義信と共に富士川の戦で戦わずして勝利した。時代は源頼朝を選択した。頼朝は勝ちに乗じて平維盛を追討するため兵士たちを上洛させる命を出すが、千葉常胤・三浦義澄・上総広常が、

「常陸の国の佐竹義政と同冠者秀義等が、数百の軍兵を率いて、未だ服従しておりません。特に秀義の父である佐竹隆義は、平家に従い在京しております。その他にも自らの武勇を驕るものが東国にはまだ多くおります。そのため東国を平定し西国に至るべきです」と、諫めた。全くの正論であるが、ここに東国・坂東の源家の従う武士の本質は、東国・坂東における平家と繋がる目代を攻めて、平家とのつながりを断たせ、挙兵に参加する武士の所領を安堵・保証し、敵方の没収地を新たに恩賞とする得る事である。貴族や平氏に不安と不満をいだく東国武士にとって頼朝に従う事で変革をもたらされることを願い、多くの武士が集まった。しかし、保元・平治の乱の敗戦がよみがえる。また、東国武士の所領が安堵される自立論が叶えられれば、朝廷の権威に歯向かう事の難しさは、天慶の乱での平将門の乱で知られている。上洛までの軍備・兵糧は彼らが担うのであった。

  

 頼朝は即時平家追討を指示するが、東国の支配を確実にすべきであるとの千葉常胤、三浦義澄、上総広常の進言に従い、安田義定を遠江の守護とし、武田信義を駿河国に置いて、黄瀬川に戻り宿とした。そしてこの日、奥州の藤原秀衡の下から源頼朝の宿所に異母弟の義経が現れた。二人は互いに昔を語り合い、懐かしさのあまり涙したと記されている。時代の流れはその後、義経という天才的武者により加速度を高め流れていくことになる。

 

 同月二十三日、頼朝は相模の国府(所在地は不明、小田原市、海老名市、平塚市、大磯町と説はある)に着き、初めて勲功に対して本領安堵や新恩を給与する恩賞を行う。また、石橋山での大庭景親は上総広常の預かりとなり、他の平家家人らは、それぞれ頼朝の臣従の預かりとした。この恩賞は以仁王の令旨によって行われたとするが、本来律令制度においては、令旨の文面からして以仁王が行わなければならない。天慶の乱で平将門が新皇として叙任した事と同様の違法な事である。また以仁王の令旨には、自身が天皇即位を促す文面に対して後白河院及び朝廷は謀叛人として扱った。そのためにこの令旨の有効性は無く、寿永二年十月宣旨まで頼朝は東国で兵乱を起こした謀叛人として取り扱われる。ここで勲功の恩賞を行ったのは、東国の支配を確実にすべきであるとの千葉常胤、三浦義澄、上総広常の進言に関係性があった。東国・坂東武士にとって源平の対峙による合戦は、頼朝の私戦と捉えられ、上洛よりも東国・坂東武士等は自立的な所領の安堵を願っていたと言えよう。そのために頼朝は今後の主従関係を継続・構築していくためには、即座に所領の安堵と新恩の給与を行わなければならなかったと考えられる。 

 

 同月二十六日、大庭景義預かりの河村義秀が斬罪を行うよう命じられ、固瀬(かたせ)川の辺りで大庭景親の首が討たれ晒された。山崎の合戦の残党が多くいたが処刑された者は、十分の一程度だったという。

 同月二十七日、佐竹秀吉を追討するため常陸の国に出発し、翌月の十一月四日に常陸国府(現、茨城県石岡市)に到着している。佐竹氏は清和源氏の源義光の孫・昌義が常陸国久慈郡佐竹郷を開発し土着して佐竹氏を称した。平安後期には常陸北部の七郷を領し、常陸平氏の大掾氏と姻戚関係を持ち強固な勢力基盤を固めた。また、京において常陸平氏の同族の伊勢平氏である平家と結び、保元平治の乱では平家に属している。そして、東国では奥州藤原氏と結び常陸南部にも介入して勢力の拡大を計った。千葉常胤によって成立した相馬御厨を平家と姻戚関係を持った下総守・藤原道親・親守親子が平治の乱後に佐竹義宗と結託して強奪し、この件で房総の上総氏や千葉氏との関係が悪化する。

 

 「四十三、千葉氏と上総氏」で記述したが、千葉氏と同族である上総氏は、上総広常の長兄である伊西常景が有していた上総氏及び房総平氏の惣領の座を次兄の常茂が常陰を殺し奪った。その事で、上総氏及び他の房総の平氏の間で激しく反発に遭い多くの者が常茂の下を離れて八男の広常の許に去った。常茂は国主の藤原親盛を通じ、親盛の姻戚関係にあった平家と結びつく事で自己の地盤を強化する。実際に常茂は大番役として上洛して謹仕した。治承三年(1179)十一月に平家の有力家人・伊藤忠清が上総介に任ぜられ広常は国務を巡り忠清と対立し、平清盛に勘当された。これらの経緯で房総の上総氏と千葉氏が連合して所領安堵のために頼朝の命で佐竹氏討伐に動き、金砂城を攻める。そして、『源平闘諍録』に常茂が上洛している間の治承四年(1180)八月四日に源頼朝が伊豆で挙兵した。頼朝挙兵に、上総広常とその同族である千葉常胤が賛同して兵を挙げる。常茂の子息たちも父親に反して広常に加勢した事が記載されており、後に子息にも見放された常茂は、平維盛を大将とする頼朝追討群に従事するが同年の十月二十三日の富士川の戦いで広常に討たれた。 ―続く