坂東武士と鎌倉幕府 四十六、富士川 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 治承四年(1180)九月一日に頼朝挙兵の知らせを大庭景親より福原にもたらされ、同五日に平清盛が東国・坂東に追討軍の派兵を決定している。追討軍の編成は進まず、平維盛を総大将として副将軍忠度、知度が福原を出発したのが同月十八日であった。京に十九日到着するが、維盛が京を立つ日を決めるが、乳母父である侍大将の伊藤(上総介藤原)忠清との間で、日が悪いとして忌むべきだとした事で内輪もめとなり、結局京を出たのが同月二十九日になってしまっている。

 

 『平家物語』では東国の住人で、この度の東国への案内人である斎藤実盛に維盛が問うた。

「実盛、汝のような強弓を射る武士は東国八ヶ国にいかほどいるのか」と、言うと実盛はあざ笑って答えた。

「君は実盛を弓勢の強い射手とお思いですが、わずか十三束(拳十三個分の長さ)の矢を使いますが実盛のような射手は八ヶ国にいくらでもいます。大矢と申すようなものは十五束に及ぶもので、弓の強さも、力強い逞(たくま)しい者は、五六人は知っております。そのような精兵がいれば鎧の二三両をも重ねて容易く射通します。大名(豪族)一人と申すのは、率いる軍勢が少なくとも五百騎に劣らず、馬に乗れば落ちる道を知らず、馬の足場の悪い険阻な場所柄を走らせても馬を倒しません。戦はまた親が討たれようが、子が討たれようが、死ねば死骸を乗り越え戦います。西国の戦は親討たれれば供養し、喪に服す期間が明ければ攻め寄せ、子が討たれればその思いを歎きます。兵糧米が尽きれば、春は田を作り、秋は収穫し攻め、夏は暑いといい、冬は寒いと嫌う。東国にはそのようなことはございません。甲斐・信濃の源氏共は、このあたりの地理にはよく精通しております。富士の裾野より正面の大手の軍に対し陣の背後や側面から押し寄せます。このように申せば君を臆するように申しているわけではございません。戦は軍勢にではなく計略によるものでございます。実盛は、この度の戦で生き抜き再び都に帰ることを考えています。」と言うと、平家の者は皆あまりにも恐ろしさに震えが止まらなかったと記され、士気を萎えさせたという。しかし斎藤実盛がこの合戦に従軍した史実は無く、『平家物語』において東国武士の武勇と戦の考え方の違いを語った話で、作者の虚構と考えられる。

 

 『三槐記』『玉葉』『吉記』では、駿河に入った維盛に対し、武田義信は「かねてからお目にかかりたいと思っておりましたが、さいわい宣旨の使者としてこられたので、こちらから参上したいのですが道が遠く険しいのでここはお互い浮嶋ヶ原で待ち合わせましょう」と使者を送っている。この不的な内容に伊藤忠清は激怒し、使者は切らないのは私合戦の習いであるが官軍には適応しないと使者二人を切った。

治承四年から旱魃が続き、養和の大飢饉と広まり多くの餓死者が出る。維盛率いる追討軍は『平家物語』では京を出た時に三万騎とあるが、進軍しながら諸国の「駆武士(かけぶし)」を集めでは七万騎の大軍と記されるが、所詮は寄せ集めの軍勢であった。そして、西国で多くの餓死者が出る養和の大飢饉が、この年の治承四年から旱魃(かんばつ)が続き農作物の収穫が減少している追討軍の兵糧の調達に苦しみ、士気が非常に低かったとされる。

 

 富士川での合戦時には『吾妻鏡』では数万騎と記載があるが、『玉葉』によると富士川の戦いでの軍勢は源頼朝と武田信義の連合軍は四万騎、平維盛の追討軍は四千騎千騎であったが、この時点では二千騎迄に減少していた。

この富士川の戦いは本来、源頼朝の討伐軍として編成されたが、信濃・甲斐の源氏の討伐に趣旨が変ったように思われ、また維盛率いる追討軍が東海道を上る道中で頼朝の再挙を知らされたと考える。平家方の佐竹氏から都に放たれた家人よりその知らせを受け取っている。頼朝が石橋山の合戦で敗れ、房総の安房に退き、房総武蔵の武士が頼朝に従い挙兵するまでの期間があまりにも早かった点と、相模・伊豆の平家家人がその頼朝により滅ぼされたこと、そして兵糧の問題で富士川での士気が低下した点が敗因の要因であったと考えられ、平家の予想を裏切る結果となってしまった。

 

 『吾妻鏡』では、治承四年(1180)十月二十日、源頼朝は駿河国賀島(かじま:現、静岡県富士市南西部。富士川と潤井川の間)に到着する。平維盛・忠度・知度らが富士川の西岸に陣を張る。夜半の頃に武田信義が計略を企て、密かに平家の陣の背後を襲おうとしたところ、富士沼に集まっていた水鳥の一群が飛び立った。その羽音は全く軍勢の音のように思われ、平家は驚き慌てた。ここで平氏方の次将・伊藤忠清らが、

「東国の士卒はみな頼朝に味方しています。我等はうかつに京を立ち、すでに包囲を逃れ難くなっております。急いで京に戻り、他の策を要すべきです」。

維盛以下平家の軍勢はその言葉に従い、夜が明けるのを待たずにすぐさま京に帰ってしまった。その時に飯田家義と子息(渋谷重国の五男、相模国下飯田本郷の住人・開発者)は富士川を渡り平家の従軍を追いかけた。伊勢の国住人伊藤次郎が引き返し合戦となり、飯田義家の子息は、すぐに討ち取られたが、家義が伊東を討ち取ったという。また、印東常義(常茂の誤字とされ上総広常の兄)は鮫島で誅された。

 『平家物語』では、十月二十三日になり、明日は源平富士川似て矢合わせと定められた。夜になり、平家の方より源氏の陣を見渡せば、伊豆・駿河、人民・百姓が戦に恐れて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは船に乗って海川に浮かび、いとなみの(炊事などする)火が見えたが、平家の兵は「すごく多くの源氏の陣のかがり火の多さよ、他にも野も山も、海も河もみな敵である。どうするのだ」と慌てた。その夜の夜半に富士川の沼に、多く群れる水鳥が何かに驚き、一度に飛び立つ羽音がして、大風、雷のように聞こえた。平家の兵は「早くも源氏の大軍が押し寄せた。斉藤別当が申すように、きっと搦め手から攻めてくる。囲まれてはかなわない。ここを退き尾張河、墨俣にて防げ」と。取るものもとりあえず我先にと落ちていった。あまりに慌て騒ぎ、弓取る者は矢を取らず、矢取る者は弓とらず、人の馬には我先に乗り、我が馬を人に乗られる。あるいは繋いだ馬に乗って杭の回りを限りなく回る。近くの宿々から迎えた遊君・遊女は、頭を踏み割られ、腰を折られて呻き叫ぶ者が多かった。」と記される。そして十一月八日、維盛は福原に戻った。平清盛は「維盛を喜界が島に流し、伊東忠清を死罪にせよ」と言い、評定が行われたが裁きは行われなかった。

 

 同十日、維盛は右近の中将になり、人々は「打ち手の大将となったが、さしたる手柄もなく、これは何事の褒美か」とささやいたと記される。この富士川の合戦において、『吾妻鏡』『平家物語』を読む限り源頼朝が実際に富士川で参戦したのかは、頼朝の当日の記述が記されず、不明な点が残り、黄瀬川宿に留まっていたという説もある。また、後に褒賞を受ける飯田家義や上総広常が兄の印東常義(常茂)が誅されたと記載があるが『吾妻鏡』に広常により討ち取られたかの記述は無い。『中条家』「桓武平氏庶流系図」にて「為弟弘常被害」と記されており、上総広常により討たれたとされている。 ―続く