坂東武士と鎌倉幕府 四十五、鎌倉の地にて | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 治承四年(1180)十月六日、千葉常胤が拠点を頑強である鎌倉の地に置く事の進言に従い頼朝は、畠山重忠を先陣にし、千葉常胤を自身の後ろに従え相模国に到着した。『吾妻鏡』では、その他従った軍士は「幾千万ともしれないほどであった」と、記されている。東国・坂東の相模の地で小さな漁村と農村だけの村であった鎌倉が、この日から中世の武士の都市として発展していくことになった。この日は民家を御宿館として定めたという。

 同月七日、前九年の役で奥州を鎮定した源頼義が康平六年(1063)に源氏の守り神として京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請した由比若宮を遥拝し、その後に父の源義朝の旧跡である亀ヶ谷(現在の扇が谷一帯)に向かった。現在の寿福寺が義朝の屋敷跡とされ、この地に邸宅を立てようとしたものの、土地が狭く、岡崎義実が義朝を弔う御堂を建てていたため断念したという。

翌八日に足立遠元が日頃から功労を重ね、召しにも真っ先に応じ参上した事で、頼朝は遠元の治めている郡郷を安堵(所領安堵)すると伝えた。これが、中世においての頼朝が発した「御恩と奉公」による武士の主従関係において相互に利益を与える互恵的な関係の始めである。

 

(写真:由比若宮 元八幡)

 同月九日、大庭景義(大庭景親の兄)により頼朝の邸宅の工事が始められた。その間の宿館として知家事(ちけじ)兼道の家が定められ、移築された。この邸は正暦年間(990)に建てられて以来火災に遭った事が無く、安倍晴明が陳宅の符を押したからとされる。

 同月十一日、大庭景義が走当山の文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)の房に渡っていた御台所(北条)政子を迎え鎌倉に入った。走湯山住僧の専光坊良暹(せんこうぼうりょうせん)が頼朝の兼ねてからの約束通りに鎌倉に着き、長年の祈祷の師と檀那の関係を構築した。

 翌十二日には、先祖を崇めるために小林郷(現、鎌倉市雪ノ下)の北山の地に宮廟を構えた鶴岡八幡宮の建立を決め、八幡宮寺の別当を良暹として、大庭景義が奉行とした。八幡宮の鎮座する場所を新旧決めかねた頼朝は、その判断が定まらず、身を潔斎(身を清める事)し、神前で自ら鬮(くじ)を引き、場所を小林郷に定めたという。

 

 同月十三日、木曽冠者義仲が亡き父義賢の後に倣い、信濃国を出て上野国に入った。住人が次第に集まり、義仲は足利俊綱から妨げがあっても恐れることは無いと命じたという。また、駿河目代橘遠茂が長田入道の計略で富士野を回り襲来するとの知らせがあった。その途中で迎え撃ち、合戦すべきと群議で決定していたため甲斐源氏と北条時政義時親子が駿河国に赴き、この日の暮れに大石駅(現、静岡県富士宮市上条付近)に宿泊したという。加藤太光員と同藤次景兼が石橋山合戦後に甲斐国に逃れていたが、この軍勢と共に駿河に至っている。翌十四日、武田・安田の軍兵が神野(現、静岡県富士宮市内野字上野付近)春田路を経て鉢田の辺りに至ると、甲州に大軍で向かう駿河目代橘遠茂と遭遇した。この一帯は山峰が連なり、道を大きな岩が遮り前にも後ろにも進みがたい地であったために伊沢信道と加藤景兼らとともに戦闘を進み攻め戦う。長田入道子息二人の首がとられ遠茂は生け捕りにされた。遠茂の従者は命を落とし、傷を蒙った者は数知れず、後方の者達は世を射る事も出来ず悉く逃亡した。

 同月十五日、大庭義景が修理を担当していた鎌倉の邸宅に頼朝が初めて入った。去る十三日に平家の大将軍小松少々維盛が数万騎の軍勢を率い駿河国手越駅に到着した知らせが入り、翌十六日に頼朝は駿河国に向けて鎌倉を出発した。その夜、相模国府六所宮に着き箱根山別当に相模国早河荘の寄進を行い、合戦を勝利する祈禱を依頼している。

 

 同月十七日、頼朝は石橋山の合戦で大庭景親に与した波多野義常を誅伐するため下河辺行平らを差し向けたが、義常はこの事を聞き到着する前に松田郷(神奈川県足柄郡松田町付近)で自害した。

同月十八日、大庭景親が平家の陣に加わるために一千騎の兵を連れて出発しようとしていたところ、頼朝が二十万騎の精兵を率い足柄を超えたので、景親は先に進めず、河村山に逃亡したという。また頼朝は、この日の夜に黄瀬川に到着し、あらかじめ約束していたこの地で甲斐源氏・信濃源氏・北条時政が二万騎の軍勢を率いて合流した。一条忠頼が諏訪大社上宮の大祝(おおほおり)篤光の夢のお告げを話し、信濃国の平氏方の菅冠者を攻めて自害させた事で田園を諏訪も上下者に寄進した事を伝える。寄進に対し頼朝が、かねてから意志に叶うものであったために大変感謝したという。また駿河目代橘遠茂の合戦で加藤太光員が目代遠茂を討ち取った事や遠茂の郎従を生け捕りにしたこと加藤次景廉が問う茂の郎従二人を討ち取り一人を生け捕った事を申し、工藤景光は波志田山で俣野景久と合戦し忠節を尽くした事を言上した。頼朝は皆に恩賞を与えることを仰せになった。そして石橋山で大庭景親に与していた荻野利重・曽我祐信らが従属を示したという。

 
 

 同月十九日、伊東祐親は平維盛に与するため伊豆国鯉名泊に舟で向かおうとしたところ天野藤内遠景がこれを見て生け捕りにし、黄瀬川の頼朝の下に祐親を連れ参上した。祐親の婿である三浦義澄が頼朝の御前に参上し、祐親の身柄を預けて欲しいと申したため、罪名が決まるまで義澄の預かりとなる。伊東祐親は以前頼朝を殺害しようとしたが祐親の次男・祐泰が頼朝に知らせたため難を逃れることが出来た。その功を称え褒賞を与えようと呼び出されたが、祐泰は、

「父はすでに怨敵として囚人となっています。その子である私がどうして恩賞を受けることが出来ましょうか。速やかにいとまを賜りたく存じます」と申し、平氏に味方するために上洛したという。世の人はこの話を美談と評した。 ―続く