治承四年九月二十日、土屋遠元が頼朝の使いとして甲斐に向かった。それは安房・上総・下総の三国の軍兵を全て参向させ、それに加えて上総・下野・武蔵の国々の精鋭を率い駿河国に赴き平氏の来陣を待ち受けるので北条時政の案内で、黄瀬河辺りまで来るように武田義信をはじめとする源氏に伝えた。
『平家物語』では、九月二日、相模国の大庭景親から遷都した摂津の国の福原に早馬を持ってつたえられた。「去る八月十七日、伊豆国流人右兵衛佐頼朝、舅北条時政を遣わして、伊豆目代和泉判官兼高を、山木が館で矢内に討ち候ぬ。その後土肥・土屋・岡崎をはじめとする三百余騎、石橋山に立ち籠って候と頃に、景親見方に心ざしを存ずるものども、千余騎(『吾妻鏡』では景親軍勢、三千余騎、頼朝軍勢三百余騎)を引率して、おしよせ攻め候程に兵衛佐七十八騎に討ちなされ、おほ童(髪の髻が解けて童の髪のようになった状態)に戦ひなって、椙山へ逃げ込み候ぬ。・・・」と、頼朝の山木攻めから石橋山の合戦による挙兵、その後の三浦衣笠城での合戦で三浦勢が安房・上総に渡った事が伝えられていた。入道相国(平清盛)は激怒して「頼朝をばすでに死罪に行われるべかりしを、故池殿のあながちに歎きの給ひしあひだ(あまりにも嘆願されたので)、流罪に申しなだめたり(流罪に減刑した)。しかるに其恩忘れて、当家に向かって弓を引くにこそあんなれ。神明三宝(神と仏:三宝は仏・法・僧)もいかでか許させ給ふべき。ただいま天の攻めかうむらんずる頼朝なり」と激怒したと記される。また、京都高尾山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため伊豆に配流され、頼朝と知遇を得た文学上人が、頼朝の父・義朝の髑髏(どくろを)を取り出し、頼朝の挙兵を促した事も記されている。この事については、『愚管抄』で文学と頼朝は「四年間同じ伊豆国で朝夕頼朝に慣れ親しんでいたので文覚が後白河法皇の命令もないのに法皇や平家の心の内を探って、差し出がましい事を言ったのであると」記している。
同月二十二日、高倉天皇の宣旨を受け源家討伐のために東国に向う左近少将(平)維盛朝臣が、摂関家・近衛基通から御馬が贈られた。去る嘉承(1108)二年十二月十九日、維盛の高祖父・平正盛が宣旨を受けて対馬守源義親(源義家の次男、頼朝の祖祖父)を追討するため出陣した日に殿下(藤原忠実)に参って暇乞いをした後、忠実から馬を送られている。この古例に倣った事であった。
同月二十四日、北条時政と甲斐国の源氏等は、辺見山を退き、石和御厨(いさわみくりや:現山梨県笛吹市石和町)で宿営し、土屋宗等が到着し、頼朝の命令を伝えた。武田信義・一条忠頼等は駿河国での合流を評議した。
同月二十八日、頼朝は江戸重長に御書を送る。
「大庭景親の催促を受け、石橋山での合戦はやむを得ない事であるが、以仁王の令旨の通りに頼朝にしたがうべきである。畠山重能・小山田有重が折しも在京しており、武蔵では、現在汝が棟梁である最も頼りにしているので近辺の武士を率いて参上せよ。」と伝えた。翌日になり返事もなかったため頼朝は、追討すべきと考え、同じ秩父平氏ではあるが二心を抱いていない葛西清重に大井の要害に重長を誘い出して追討するように命じている。またこの日、平維盛が薩摩守平忠度・参河守平知度らを従い東国・坂東に向け出陣している。三十日、新田大炊祐源義重は東国の武士が一揆して挙兵する以前に無き陸奥守(源頼家)の嫡孫である事から、自立の志があり、頼朝が御書を送ったが返事を返さず、上野国の寺尾城に立て籠もり、軍兵を集めた。また『山槐記』九月七日条には「義朝子伊豆を領す。武田太郎(信義)、甲斐国を領す」と義重より都に注進されたとの記載があり、平家と頼朝率いる源家の形勢を見定めていた動きを示している。信義率いる甲斐源氏一党もすでに『吾妻鏡』の記載とは別に八月下旬には挙兵したと考えられる。同族の足利俊綱は上野国の府中の平家方民家を焼き払って頼ともに参陣している。この事により後の鎌倉幕府での新田氏の冷遇と足利氏の厚遇の違いが決められたとされる。
同年十月一日、駿河国目代・橘遠重は甲斐国の源氏が精兵を連れて競って向かっているという噂を聞き、遠見と駿河の両国衙の軍士を集め、興津(現静岡県清水市清水区北東部)の辺りに陣を構えた。頼朝は鷺沼(さぎぬま:現千葉県習志野市鷺沼)を宿所として、そこに石橋山の戦いで散々になった者達が多く集まり、佐々木定綱兄弟と共に頼朝の異腹弟・全成(義経は同腹弟)が参った。全成は、
「以仁王の令旨が下されたことを京で伝え聞き、ひそかに醍醐寺を出て、修行の身を装って下向して参りました。」
頼朝は涙ながらにその志に感謝したという。
同月二日、頼朝は千葉常胤と上総広常等の舟に乗り大井川・隅田川を渡ったが軍勢は三万四騎に及んでいた。武蔵国に赴くと豊島清元・葛西清重たちが真っ先に参上し、足立遠元は、前もって頼朝の命を受けていたため迎えに上がって来た。この日、頼朝の乳母である故八田宗綱の息女(小山下野大掾政光の妻、寒川尼と号する)が特にかわいがっている末子を連れ隅田宿に参上した。頼朝はすぐに御前を召し、昔の事について話された。寒川尼連れてきた子息を頼朝の側近として奉公させたいと望み、頼朝はその子息を召して自ら元服させて、自身の烏帽子を取って与えている。この十四歳の若者が小山宗朝と名のり、後に名を改めた小山朝光であった。
同月四日、畠山重忠が長井の渡しで参会した。河越太郎重頼と江戸重長も参上した。彼らは三浦介義明を討ったものであるが、三浦義澄以下の子息や一族は多くが頼朝のお供に従い武功に励もうとしていた。頼朝は、義澄以下三浦一党に、
「重長等は源家に弓を引いたものであるが、この様な勢力のある者を取り立てねば目的は成し遂げられないであろう。忠に励み直心を持つならば決して憤懣を残してはならない。」とあらかじめ仰せになっていた。彼らは異心を抱かないことを申し上げたので、互いに目を合わせ納得して席に並んだ。
頼朝が九月二十八日に、「畠山重能・小山田有重が折しも在京しており、武蔵では、現在汝が棟梁である最も頼りにしているので近辺の武士を率いて参上せよ。」江戸重長に御書を送った。武蔵八平氏は源氏累代の臣従であったが、平治の乱で敗れた義朝死後に平家の家人となり、石橋山の合戦で大庭景親に付いた。畠山氏が国・国衙を管理する朝廷からの役職の武蔵介であり、武蔵八平氏の祖である秩父氏の惣領「武蔵国留守所総検校職」が河越氏であったため、平氏の恩義にむくいるためであった。一説には、駿河で平家軍と対峙する際に武蔵七平氏の武勇は優れ、背後に存在する事は脅威である。頼朝はその勢力の分断に葛西氏を中心に勢力的には低かった江戸氏を取り込み内部崩壊的な目論見があっつたともされる。確かにその意味はあっただろうと考えられるが、『吾妻鏡』に御書を出した江戸重長は、江戸氏の系図及び嫡子忠重が畠山の乱で幕府方に付き、承久の乱での参陣している事等で年齢的に長年であったと思われる。
(写真:ウィキペディアより引用、畠山重忠像)
畠山重忠はこの時十八歳で、葛西氏と同族であった江戸重長を取り込み、畠山重忠の懐柔を計ったとも考えられる。河越重頼・弟の重経は保元の乱で義朝に臣従し『保元物語』では「高家」として他の武士と違う記載がされている。そして重頼の妻は、頼朝の乳母・比企尼の次女河越尼であり、同じ娘を妻とした安達盛長、伊東祐清、と同じ挙兵前の頼朝に早期から援助をしていたとされる。江戸重長への御書に「近辺の武士を率いて参上せよ」とは、畠山重忠のことであったと考えるべきで、同月四日に畠山重忠が河越太郎重頼と江戸重長とともに長井の渡しで参上した事は、重長の大きな功績であった。したがって、同月五日に、頼朝は武蔵の国衙の様々の実務について、在庁官人や郡司を統率する権限を与えている。なお、江戸時代まで江戸氏は存続するが、河越重頼は娘を源義経に嫁がせ、義経の謀叛により頼朝に誅殺される。また、北畠重忠は、頼朝死後に北条時政により謀叛の罪を着せられ誅殺され、武蔵の国が北条氏の手に委ねられることになった。軍事的強固である武蔵七平氏の軍事力と経済力、そして戦に欠かすことが出来ない馬の確保の土地であった。武蔵国の掌握は、東国・坂東を征するために最も必要な土地であった事が窺われる。 ―続く