坂東武士と鎌倉幕府 四十八、金砂城攻めと東国・坂東の平定 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 自前の兵を持たない頼朝にとって東国・坂東の武士達は、もろ刃の件であった。何時、自身に刃を向けてくるかもしれない武士達をまとめるために、いくつかの方策を取る。頼朝の挙兵に参加する武士の所領を保証し、東国における目代を攻めて平家とのつながりを断たせた。敵方の没収地を新たに恩賞とする事の政策が採られた。また、貴族や平氏に不安と不満をいだく東国武士は、頼朝に従う事で変革をもたらされることを願い、多くの武士が集まる。富士川の戦いにおいて、いかに正確な情報と迅速な対応と戦略が必要なのか、また、武士達への恩賞を与え得る事で、御恩と奉公を確立させ、そして鎌倉幕府の御家人達に「いざ鎌倉」としての言葉が受け継がれていく。そして頼朝は、従わない常陸国の佐竹義正の討伐に向かった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 西金砂山神社の本殿からの風景と本殿)

 治承四年(1180)十月二十七日、頼朝は、富士川での軍勢を佐竹氏の常陸国に向かわせる。この日は頼朝に取って陰陽道で行動に支障をきたす衰日の日に当たり、周囲は出発に反対するが「二十七日こそ以仁王の令旨が到着した吉日である」として出陣した。常陸国の佐竹義政(『吾妻鏡』では義政、『平家物語』系軍記では忠義)秀義兄弟は、父・隆義が在京中で平家方であることを理由に要害である金砂城(現、茨木県常陸太田市上宮河内町)に立て籠もっていた。

同年十一月四日に頼朝勢は常陸国に入り常陸国府(現茨城県石岡市)で軍議が開く。佐竹氏の縁者である上総広常が佐竹城の前の矢立橋に誘い出して誅した。その日、直ちに下河辺行平・正義、土肥実平、和田義盛、土屋宗遠、佐々木定綱・盛綱、熊谷直実、平山季重等の数千の兵が秀義の籠る金砂城を攻める。山の側面が絶壁である金砂城は要害であり、多くの頼朝勢に被害をもたらした。土肥実平、土屋宗遠等が頼朝に使者を遣わし、

「佐竹が構える要塞は、人の力で破る事は出来ません。その中に籠る兵士は一人が千人に当たるため、よくよくお考え下さい」

上総広綱は名案を頼朝に告げた。

「佐竹秀義の叔父に佐竹蔵人義季という者おります。義季は、智謀が優れ欲心は人波を外れています。恩賞を受けるという約束があれば、きっと秀義を滅ぼすための計略を練るでしょう。」

頼朝は進言を受け、広綱を義季の下に遣わし、義季は広常の来臨を喜び、すぐさま広常と話した。

「最近東国の親しき者も、疎(うと)き者も、頼朝に従い奉らむ者はいない。しかし秀義は一人仇敵になっており、まことに理由のない状況である。親族でありながら、貴殿はどうして秀義の不義に味方されるのか。早く頼朝様に参じて秀義を討ち取り、その遺跡を手にすべきである」。

義季は即座に帰順して、広綱を伴い金砂城の背後に行きそこでときの声を上げた。その声は城郭に響き渡り、予測していなかった秀義等は、広常の攻勢を受けて防ぐことを忘れ逃亡したという。

(写真:ウィキペディアより引用常陸国国府蹟)

 同月六日、広常は金砂城に入り、城郭を焼き払った。その後、軍兵等を各道に派遣させて秀義の探索を行ったが、深山に入り、奥州の花園城(茨木県北茨木市花園にあった城)に向かっていた。翌七日には、上総広綱により合戦の経緯が示され、勲功恩賞が再び行われた。熊谷直実と平山季重が特に勲功があったとして他の武士よりも厚くするようにとの頼朝自身が直々に申したという。また佐竹義季が参上して臣従を申し込んだので頼朝は、それを許した。そして今日、志田先生義広と源行家(頼朝の叔父)達が常陸国府に参上して面会したという。行家は頼朝に共に平家討伐の挙兵を行う目的だったとされるが、頼朝が承諾しなかったとされ、その後この二人は木曽義仲のもとに走り頼朝・義仲の対立に火種を産むことになる。

 

 同月八日、佐竹秀吉の所領である常陸国奥七郷と太田・糠田・酒出などを収公し、軍士の勲功の恩賞に充てられた。また逃亡していた佐竹の家人が十人ほど現れ、為上総広綱と和田義盛に生け捕らせて帝中に召し出された。紺の直垂を着た男が頻りに顔を伏せ泣いていたので頼朝は理由を聞く。

「死んだ佐竹の事を思うと、首が繋がってもどうしようもありません」と、その男は答えた。

「そう思うならば、佐竹が誅される時に、何故自らの命を断たなかったのか」と頼朝が言うとその男は、

「主人が殺された時、我々家人はその橋の上には行かず、ただ主人一人が橋の上に呼び出され、首を取られたので、後の事を思って、逃亡したのです。今ここに参上しているのは、精兵の本意ではございませんが、ぜひとも拝謁のついでに申し上げたいことがあるからです」

重ねて頼朝がそのむねをたずねた。

「平家を追討するという計画を差し置いて、一族である佐竹を滅ぼされるとは、全くあっては無い事です。国の敵(平家)に対しては、天下の勇士が一揆して力を合わせるべきです。しかし過ちの無い一門を誅されては、御身の敵は、誰に命じて対峙されるつもりでしょうか。また、御子孫は誰が御守りしてゆくのでしょうか。この事をよくよく思案されるべきです。今のような状態だと、人々はただ恐れをなすだけで、心から服従する志を持つことは無くなります。きっとそしりを後代に御残しになるだけでしょう」

頼朝は何も言わずその場を去り、広常はいった。この男が謀叛を起こそうとしているのは疑いありません。即座に誅すべきです」

「そのようにしてはならない」と、頼朝は言い、その男を許され、そればかりか御家人に加えられた。岩瀬与一太郎義政である。義政は頼朝の随臣となり、騎奉行として現在の鎌倉の岩瀬に移り住んだことで岩瀬の地名が残されている。岩瀬の『五社稲荷神社略記』によると建久年間(1190~1198)に岩瀬与一太郎正義が当地に居住せし時、五穀豊穣と安寧を願って創建とある。

  

 同月十二日、頼朝は武蔵国に入り荻野五郎俊重を斬罪に処した。俊重は日頃のお供にあり、その功績は有るが、石橋山の合戦で大庭景親に味方して、大いに人の道に背いたため、また同様な事例に対応するために、その非を正して斬罪にしたという。

同月十四日、武蔵国内の寺社に多くの人が乱入し狼藉を行うと言う訴えがあり土肥実平を清浄の地の乱入を停止させるために武蔵国に向かわせた。翌十五日源家数代の御祈禱所の武蔵国威光寺の院主増援が伝えている僧房や寺領に対して、今まで通りの年貢を免除される。

 同月十七日鎌倉に戻り、曽我祐信(曽我兄弟の義父であり弓の名手として知られた)が御厚情により赦免された。また和田義盛が、石橋山の合戦の後、安房に向かう途中の船中で要望したとされる侍所別当に上位の者を差し置いて、命じられたという。

 同月十九日、頼朝は、武蔵国長尾寺(威光寺)を弟の禅師全成に譲渡し、今日本坊を禅成に安堵した。先例の通りに祈祷の忠を尽くすよう命じ、住僧慈教坊増円、慈音坊観海、法乗坊弁明を召し出している。

同月二十日、大庭景義が外甥で大庭景親に与して自害した波多野義常の子息・有常を連れ参上し、御厚恩の赦免を望んだが景義の預かりと命ずる。義経の遺領の内松田郷は景義が拝領したがあり常葉赦免され後に頼朝の御家人となっている。

同月二十六日、山之内須藤経俊を残材に処する事が無い内で定められたが、頼朝の乳母であった老母の嘆願により、老母の悲歎と先祖の功労を重視して晒し首の罪は許された。石橋山での頼朝に対する謀反人は、ほぼ罪名を言い渡し処罪し、東国・坂東の地の平定を終えた。 ―続く