治承四年(1180)八月二十七日、三浦義明は嫡子義澄と一族を逃し、三浦の衣笠城に立て籠もり畠山重忠と絵河越重頼、江戸重長等により討ち取られた。この日、石橋山で敗退して、嫡子の宗時を亡くした北条時政、義時親子、嫡の佐奈田義忠と兄の三浦義明を亡くした岡崎義実、近藤七国平等は土井郷の岩屋から船に乗り込み同じく安房を目指す。海路の途中、時政らは三浦義澄ら一族と出会い、頼朝の安否を気遣いながら供に安房へと向かう。翌二十八日に石橋山の戦いで敗れ頼朝は、土肥次郎実平が手配した小舟に実平と乗り真鶴岬から安房へと脱失した。翌日、安房国平北郡(現千葉県安房郡鋸南町付近)の猟島にたどり着く。先に安房に着いていた北条時政をはじめとする頼朝の臣従が出迎え、この数日鬱々とした思いが一度に解消したという。
この安房への脱失は、挙兵前には計画されていたか、暗黙の了解だったと考えられる。挙兵前に三浦義澄と千葉常胤の六男胤頼が京の大番役の謹仕を終え国に戻る途中、伊豆の北条に参上した。この時の話の内容は、定かではないが挙兵に対して三浦氏と房総の千葉氏、上総氏が挙兵の際の助力が話し合われたと考えられる。風雨で石橋山の参陣に送れた三浦氏と、その後に駆けつけた上総介広常の弟・金田頼次の存在が物語っている。本来なら三浦と上総の軍勢の参陣を待って挙兵が行われるべきだったかもしれないが、北条時政と工藤茂光にとって、領地を巡り目代となった山木兼隆と堤権守信遠は脅威であった。また、平家の平時忠の知行国になり、目代に就いた山木兼隆は、源氏討伐に伴い頼朝にとっても生存の脅威であり、そのため挙兵に伴う山木攻めを早めたのではないかと考えられる。房総半島の三国は、頼朝の父の義朝が一時の間、上総で育ち上総介の後見により上総の御曹司と呼ばれ、保元・平治の乱において千葉常胤、上総介広常が義朝に臣従している。また、安房の住人の安西景益は三浦氏の庶流で三浦義明の甥、または姻戚関係とされ、景益は頼朝の幼少期に仕えていたとされる。
同年九月一日、頼朝は即刻、安西景益に安房の在庁官人らを参上させる御書を送り、評議が開かれた。頼朝は上総介広常のもとに向かうつもりでおり、大庭景親に与するものは武蔵・相模の者のみで、下野国の小山朝政、下河辺荘の下河辺行平、武蔵国豊島郡の豊島清元、下総国葛西御厨の葛西清重ら源家譜代の武士に参上するよう御書を送っている。その内容は「令旨は厳重なものなので、(安房国の)在庁官人らを誘って参上せよ。また、安房国で今日から下って来た輩(ともがら)は、ことごとく搦め進めよ」という物で以仁王の令旨を上げている。
同月三日、『吾妻鏡』では、大庭景親が源氏譜代の御家人でありながら、今回は頼朝に弓を引き、単に平家の命令を守っているのではなく、別の事を企てているようにも見える」と記される。景力凶徒の一身に加わっている者たちは武蔵、相模の住人ばかりで、そのうち相模の住人では三浦、中村は頼朝に御供にあり、下野国の小山朝政、下河辺行平と武蔵国と下総国に所領を持つ豊島清元、葛西清重らは凶徒に加担していなかったため御書が送られた。御書の内容は「それぞれ志のあるものを誘い参上するように」という内容であり、特に葛西清重には江戸氏と河越氏に挟まれているため用心して、海路での参上を丁重に書き留めた。また、頼朝は豊島朝経(清元の孫又は子)が在京していたため、臣従に「綿衣を進上するように」と申し、朝経の妻に与えている。源家の再興には彼らの下野国の勢力と武蔵国の軍事的支援が最も必要であった。
この日の夜、三浦義澄の兄で和田義盛の父である杉本義宗を討った長狭常伴は今も安房東岸を抑えており平氏方に志を寄せていた。今夜あたりに頼朝の御宿所を襲おうとしていることを察知していた三浦義澄は、夜半これを待ち受け、迎え撃ち、常伴を討ち取る。杉本義宗は長寛元年(1163)の秋安房に水軍を率い出陣し、長狭常伴に待ち伏せされ上陸の際に矢傷が元で杉本場内に戻り死去している。享年三十九歳であり、今回は義宗の弟の義澄が待ち伏せをして仇を討った。
同月四日、安西景益が一族と在庁官人を連れ御宿所に参った。頼朝は、上総介広常のもとに行こうとしたが、景益は長狭常伴の様な者がいるため治安が悪く、こちらに参上するように御書を送ることを進めた。上総介広常の兄の伊西常景の妻は、長狭常伴の妹で姻戚関係であったためである。頼朝は景益の家に引き帰られた。安達盛長に千葉之介常胤に御書を持たせ、上総広常には和田義盛を遣わした。
同月六日の夜に和田義盛が上総の介広常の許から帰参した。広常は、
「千葉介常胤と相談したうえで参上するつもりです」と申したと告げた。
同月九日に、安達盛長が千葉から帰参して申して言った。
「千葉常胤の館の門前に到着し、取次を求めたところ、ほどなく客間に招かれました。常胤は前もって座に座り、子息の胤正・胤頼もその横に居ました。常胤は、くわしく盛長が述べるのを聞き言っていましたが、しばらく言葉を発さず、ただ眠っているようでした。そこで、二人の子息が『武衛(頼朝)が武門を再興し、平家の狼藉を鎮められるにあたって、その初めに我々を召されたのです。これに応ずるのに、どうしてためらうのでしょうか。早く承知をする旨の文書を提出しましょう』と言われました。脛胤がそれを聞き『心の中では、承諾する事に全く異議はない。源家が中絶した後を起こされようとされるので感激の涙が止まらず、言葉にすることもできないほどだ』。その御酒宴となった折に『今いる居場所はとりたて要害の地ではありません。また源治ゆかりの地でもありません。早く相模国の鎌倉にお向かい下さい。常胤は、一族郎党を率いてお迎えのために参ります』と申した」。 ―続く