治承四年(1180)八月二十五日、大庭景親は伊豆の杉山に籠る源頼朝を捕らえるため、各軍勢を分散させて各道を固めた。箱根は、難所が続き、古代の東海道では足柄を通る道であり、古代から奈良・吉野と並ぶ修験道の場所として山岳信仰の修験者を集めている。三代執権の北条泰時の時代に箱根越えが整備され、東海道の鎌倉の道への主要道になったとされる。したがって、相模の武士である大庭勢には索敵は難しく、石橋山の敗退後に、伊豆の国人としての土肥実平の計略は見事なものであった。
大庭勢の俣野景久と駿河国目代の橘遠茂は、甲斐武田・一条等等の源氏を襲撃するため甲斐国に向かっている。富士山の北麓に宿営していた景久並び郎従の持つ百余りの弦が鼠により食いちぎられてしまった。そこに頼朝の挙兵により石橋山の合戦の知らせを聞いた武田義信の弟・安田義定、伊豆工藤氏から分かれて甲斐国に移住した工藤景光・行光親子、市川別当行房らが甲斐を立ち、波志田山(はしだやま:比定地諸説あり、静岡県愛鷹山説と山梨県足和田山説)にて遭遇した。甲斐源氏の者等は、轡をめぐらし矢を放ち景久を攻めるが、弓の弦を絶たれた景久は太刀にて戦う。しかし矢を防ぎきれず、景久は敗れ去り、また甲斐源氏の家人も剣刃を免れることは無かった。
頼朝は箱根にいる間、行実の弟の智蔵房良暹(りょうせん)が山木兼隆の祈禱師であったため、兄弟の行実・永実らに背き悪徒を集め頼朝を襲おうと策略した。栄実はそれを聞き頼朝行実に知らせ申した。
「良暹の武勇は大した事ではないが、謀(はかりごと)を企て様ならば景親等はきっとそれを伝え聞き、我さきと急ぎ来て合力するでしょう。早くお逃げください」
頼朝は実平と永実と共に箱根を経て土肥郷へ向かった。ここで時政は、これまでの経緯と事情を甲斐源氏に伝えるため永実と同宿の南公房の案内で、山伏の通る道を経て甲斐の国に向かう。しかし、頼朝の到着場所を定めていなかったため甲斐源氏の参戦の依頼に不都合が生じると考え、再び頼朝の向かう土肥郷へ向かったとされる。
同月二十六日、畠山重忠は平家の長恩に報いるため、そして由比浦の敗戦の屈辱を雪(すすぐ)ぐ為に、河越重頼と江戸重長と共に三浦一族がこもる衣笠城に向かう。重頼は、秩父の家では次男の流れであったが家督を継承して武蔵の党を従えていた。卯の刻(午前六時から八時の間)には、重忠の動向が三浦の者にも知るところとなり、一族は三浦の衣笠城に籠り陣を張った。東の木戸口の大手は次郎義澄と十郎義連、西の木戸は和田義盛と金田頼次、中仁は長江義景と大多和義久が守を固める。辰の刻(午前七時から九時の間)畠山重忠、河越重頼、江戸重長、金子・村山等の数千騎が衣笠城に攻め入った。三浦勢は昨日と今日の戦いで疲労困憊しており、夜になり義澄は城を捨てる事を父・義明に告げる。義明は義澄に城を出て頼朝を探し出すように指示して、自身は城にとどまり、敵兵を城に引き付け時間を稼ぎ、義澄ら一族を逃がす策を立て、最後に義明は一族に語った。
「源氏累代の家人として、幸いにもその貴種再興の時に巡り合う事が出来、こんなに喜ばしい事は無い。生きながらえてすでに八十余年。これから先を数えても幾ばくも無い。今は私の老いた命を武衛(頼朝)に捧げ、子孫の手柄にしたいと思う。汝らはすぐに退却し、(頼朝)の安否をおたずね申し上げるように。私は一人城に残り、軍勢が多くいるように重頼に見せてやろう」。
義澄は涙を流しながら父義明の命に従い四散した。
この日、大庭景親は、桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族渋である谷庄司重国の下へ行って申した。
「佐々木定綱兄弟四人は、頼朝に味方して平家に弓を引いた。その罪を許す事は出来ない。そこで彼らの身を探し出す間、妻子等は囚人となすべきだ」。
重国は、その申し出に答えた。
「彼らとは以前からの旧恩があって助けてきました。しかし今、彼らが旧交を重んじて源氏の下に参上するのを制止する理由は有りません。私、重国は、貴殿の催促に応じ、外孫の佐々木義清を連れて石橋山に向かったのに、その功を考えずに定綱以下の妻子を捕らえようとする命令をうけるのは本懐ではありません」。
大庭景親は重国の道理に屈して返っていった。後に渋谷国重は頼朝が鎌倉に入ると頼朝に臣従して所領を安堵され子の高重と共に御家人となっている。
佐々木定綱、盛綱、高綱等は箱根の山奥を出たところで、頼朝の異母弟、醍醐禅師(阿野)全成と遭い、その日の夜に国重の渋谷の館に連れて戻った。重国は喜びながらも、世間に漏れることを気遣い、倉庫の中に招き入れ密かに善と酒を勧めた。重国は経高が居なかったので生死を確かめる。定綱は経高を誘ったが思うところがあるといって一緒に来なかったことを伝えると重国は、
「経高を我が子のように思ってすでに年久しい。先日、頼朝の下に参上するというので、私は一旦それを制止したが言うことを聞かず参上してしまった。合戦が敗戦に終わった今、重国の心中を恥じたので来なかったのだろう」。
そこで重国は、郎従等を方々に遣わして経高の行方を尋ねさせたという。
同月二十七日辰の刻、風雨が激しくなる中、三浦義明は衣笠山にこもり嫡男義澄や一族を逃がすため囮となり、時間を稼ぐ。攻め入る畠山次郎重忠、河越太郎重頼、江戸太郎重長と戦い、討ち取られた。享年八十九歳であった。大庭景親は、その後千騎を引き連れ三浦に攻め寄せたが、すでに義澄らは久里浜から同族の安西景益を頼り、安房に向け海に出た後だった。この石橋山の合戦において頼朝を逃し、三浦義澄を逃した事は、景親の最大の失態がで、治承・寿永の乱での平家の敗退の要因であったと言っても過言ではない。
加藤景兼と子息の光員・景兼等は、去る二十四日以降の三日間、箱根の深い山中にあって、食料も尽き、気力も失せて呆然としていた。景員は老齢のため歩く事もままならず、二人の子息を呼び申した。
「私は老齢である。たとえことがうまく運んでも、もう長く生きる事は出来ない。汝らは壮年の身であり、無駄に命を捨ててはならない。私をこの山に捨て置き、源家(頼朝)をお尋ね申せ」。
光員等はうろたえるが、断腸の思いで老いた父を走当山に送った。景員はこの山で出家を遂げ、兄弟は甲斐国に向かったという。 ―続く