『吾妻鏡』治承四年(1180)八月六日条には、「藤原邦通と佐伯昌長を御前に召して卜筮(ぼくぜい)が行われ、そして来る十七日の寅卯の刻(午前四時から日の出頃まで)を(山木)兼隆攻めの日時と決定した。その後に工藤介茂光、土肥実平、岡崎義実、宇佐美助茂、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉ほか、この時周辺にいた武士のうち、徳に頼朝の命を重んじて身命を投じる覚悟のある勇士を、一人ずつ順番に人気のない部屋へ呼び、合戦の事に付いてお話になった。そして、「今まで口に出して言わなかったが、ただお前だけが頼りだから相談しているのだ。」と、一人ひとり丁寧な言葉をおかけになったので勇士たちは皆、自分だけが頼朝に期待されていると喜び、それぞれが勇散に戦おうという気持ちになった。これは自分だけが、という思い入れを禁じられたものだが、家門の草創という大事な時期に、彼らが共通の意図をもつためとお考えになっての事であった。しかし信実や重要な光次は、時政以外には知らされていなかった」。
流人であり、ほとんど勢力が無い頼朝にとって在郷の武士に対する対応は、「自身を最も信頼し期待されていただいている」という思いを抱かせる処世術の一つであった。
この日、卜筮を行った藤原邦通は素性・生没時は不明であるが、前述している『吾妻鏡』治承四年(1180)六月二十二日条に、「遊歴」していた邦通が安達盛長の推挙で頼朝に仕えるようになる。三善康信が弟の康清に手紙を持たせ、京からの以仁王の令旨を受けた源家の討伐を知らせた。「三善康清が京に戻った。頼朝は詳しい手紙を送り、康信の功績に感謝した。治承年間に経を出て伊豆に下り、安達盛長の推挙で頼朝に仕えていた大和判官藤原国通が執筆し、頼朝が一筆書き加えて花押を据えた」とある。邦通については、頼朝の挙兵時には、朝廷や公卿、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束等の有職故実(ゆうそくこじつ)に通じ、占いや他百般の際があったといわれる。山木兼隆襲撃の直前に酒宴にかこつけて兼隆の館に留まり、周囲の地形や絵図にして持ち帰り、それを基に頼朝らが山木攻めの策を練ったとも伝わり、頼朝の初めての京官の側近とされる。
『吾妻鏡』元暦元年(1184)十月六日条によると、「新造の公文所の吉書式があった。安芸介中原広元が別当として着座した。斎院次官藤原親能・主計允藤原幸正・足立馬允藤内遠元・甲斐四郎大中臣秋家・藤判官代邦通らが寄人として参上した。邦通がまず吉書を書き、広元が御前で御覧に入れた。」とある。
公文所及び政所の初めての別当となる中原(大江)広元は、兄の中原親能が源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っており、寿永二年(1183)十月に親能は源義経の軍勢と共に上洛し、翌元暦元年(1184)正月に源範頼・義経が木曽義仲を宇治川の戦いで破った後にも再度入京して頼朝の代官として万事を奉行、貴族との交渉において活躍していた。広元が頼朝に出仕した時期は、この年だと考えられ、挙兵時からの家人ではない。兄・親能の縁で広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、公文所の別当となる。さらに頼朝が二品右大将となり、公文所を改めて政所としてからは、その別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与した。『吾妻鏡』文治元年十一月十二日条によると、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものであるとされる。
藤原邦通は、藤原俊兼が頼朝に仕えてからは入れ替わるように右筆としての影が薄くなり、養和二年十月二十日条では俊兼が頼朝御亭東面の廂(ひさし)を門柱所(訴訟等の当事者双方を審問・対決させ、その内容を記録する場所)として三善信康を筆頭に藤原俊兼、平盛時が諸人訴論対決の事を沙汰した。元暦元年(1184)十一月二十一日条において、「頼朝は俊兼を召した。俊兼は元々派手な者であり、今日も美麗な服装であったため頼朝は俊兼の刀を召し、俊兼の小袖の褄を切り取って仰せられた。
「汝は才幹に富んだ者で、倹約と言う事を知らないわけがなかろう。(千葉)常胤や(土肥)実平等は、清濁の分からない武士だ。彼らの所領は、俊兼とくらぶべくもない(ほど多い)。しかし、彼らは、衣服をはじめとして粗末な物を用いて美麗を好んだりしない。だからこそ、彼らの家は富裕で聞こえ、多くの郎従を扶持(ふち)して、勲功に励もうと心掛けている。汝は財産の使い道を知らず、大変分に過ぎた贅沢者である」。
俊兼は一言もなく、頭を垂れて恐縮した。頼朝が、
「今後は華美をやめるかどうか。」 と仰せられると、俊兼は止める旨を申し上げた。(中原)広元・(藤原)邦通は、たまたまその場にひかえていたが、皆魂も消えるような思いであった。」と記される。
文治二年(1186)三月六日条では、吉野で義経と別れた静御前が鎌倉に送られ、義経の行方について尋問を行ったのも俊兼である。また同年八月十五日では、奥州へ向かう西行が鎌倉に立ち寄り、頼朝と面会した際、頼朝が弓馬(流鏑馬)の事を尋ねた。西行はその質問が等閑(なおざり)では無かったので詳しく伝えた。頼朝はすぐに俊兼に西行の言葉を書き留めさせ、今に伝わる流鏑馬の武田流・小笠原流の基本とされる。
藤原邦通は、文治元年(1185)十月二十四日に勝長寿院南御堂の供養が行われ際に頼朝の御後に五位六位の者三十二人が参列し、武士でない京吏(けいり:京官)に因幡守(中原)広元と藤判官代邦通の二名だけが参列を許され、同格もしくはそれに次ぐ地位を認められていたと考えられる。また文治二年(1186)九月九日条に、「重用の節供(菊の節供)を迎え、藤判官邦通が菊を献上した。すぐに南県の流れを移して(中国の古事)、(菊の花を)北面の壺に植えられると、かぐわしい香りがあたりに漂い、つやのある美しい色が垣内に満ちた(頼朝は)毎秋かならずこの花を進上する様に邦通に命じられた。また(邦通は)一紙を(菊の)花の枝に結び付けていた。(頼朝が)紙を開いて見ると絶句(漢詩の形式で起句・承句・転句・結句の四句からなる物)詩がのっていたという。」と記され、頼朝の暑い信任を受けていたと考えられるが、その後の国通については定かではない。
私見であるが、藤原俊兼の『吾妻鏡』の初見が治承四年(1180)六月二十二日条であり、「遊歴」していたと記されるが、年齢的に老齢期を迎えていたのではないかと考える。また、文治元年(1185)十月二十四日に行われた勝長寿院南御堂の供養が行われ際に頼朝の御後に五位六位の者三十二人が参列し、武士でない京吏(けいり:京官)に因幡守(中原)広元と藤判官代邦通の二名だけが参列を許された。広元は承安三年(1171)に従五位下に叙任され、文治元年四月に正五位以下の昇叙されている。俊兼は五位六位に叙任されていたと考えられる。元暦元年(1184)十月六日条によると、「新造の公文所の吉書式に、邦通がまず吉書を書き、広元が御前で御覧に入れた。この事は文筆の才が同等あるいは邦通の方が勝っていたとも考えられる。また、位階が広元の方が上であったのかもしれない。そして、同月二十一日条で、藤原俊兼が華美な衣服のため頼朝に 叱責されており、その場に同席している。この叱責は、邦通から右筆の側近として替わる俊兼への問題の提起ではないかとも考える。文治二年(1186)九月九日条に、「重用の節供」での頼朝の信認。その後の記述が無く右筆としての側近が邦通から俊兼に替わり、その御、隠居生活を送るため頼朝は重用の節供(菊の節供)毎秋かならずこの花を進上する様に邦通に命じたのではないかと考える。
このように、『吾妻鏡』を読むとあまり世に知られない人物が描かれ、見つけ出す。朝廷との交渉において、東国・坂東武士はまだ識字率が低く、藤原邦通・三善康信・大江広元・藤原俊兼等の京官に頼らざるを得なかったが、頼朝の家人・従臣に対する適材適所の把握と配置、対応には、頼朝の帝王学を学ぶ面でも有用であろう。 ―続く