坂東武士と鎌倉幕府 三十九、挙兵 山木攻め | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 治承四年(1180)八月十七日、安達盛長が三島神社の神事に奉幣の御使いとして社参して帰参した。この日は、寅卯(午前四時から日の出まで)の刻に頼朝挙兵の山木攻めが決行されるはずであったが、佐々木定綱・経高・盛綱・高綱四兄弟は風雨のため、未の刻(午後一時から三時)に頼朝の下に着く。定綱・経高は馬に乗り、盛綱・高綱は徒歩で、それぞれ疲れ果てた状況であった。頼朝はその姿を見て、

「汝らが遅れたために今朝の合戦をすることが出来なかった。この遺恨は大きい。」と感激の涙を流し仰せられた。この四人が遅参したため決行が遅れたことは、いかに頼朝の軍勢が少数だったかを物語っている。この山木攻めの人数は『源平盛衰記』には九十人と記され、三十余騎と雑人・雑色を入れての人数であったと思われる。

 

 北条屋敷は、近隣の武士が集まり普段の様相とは違っていた。この様子を見れば、挙兵に気づく恐れがあり、北条屋敷の下女を嫁として夜な夜な下女の下に通っていた山木兼隆の雑色の男を盛長に仕える童が屋敷の釜殿(炊飯場)で生け捕りにした。頼朝はそのことを聞き、皆に申す。

「明日を待っていてはいけない。それぞれ早く山木に向かい雌雄を決せよ。この戦によって生涯の吉凶を決めるのだ」。

頼朝は合戦の時は、まず火を放つように命じられ、合戦の有無と成否を確かめたかったのであろう。それぞれの武士は、すでに競いって奪い立っていたが、北条時政が申し上げた。

「今日は三島社の神事があり、多くの人々がやって来ているので、きっと道は人であふれるでしょう。北条から三島神社を結ぶ牛鍬大路(うしくわおおじ)を経由すると、行き来する人たちに咎められてしまうので蛭嶋通りを行くのがよいでしょう」。

「思う所はその通りだ。しかし、大事を始めるのに裏道を使う事は出来ない。それに蛭嶋通りでは騎馬で行くことが出来ない。したがって大道を用いなさい」と仰せられ、戦場で祈禱をさせるため住吉小大夫昌長を軍勢に付き添わせた。佐々木盛綱と加藤景廉は頼朝の近くで留守を守るよう命じられた。源頼朝三十四歳、北条時政四十三歳であった。

 

 北条時政率いる軍勢は肥田原(伊豆国田方郡)に到着した。時政は、馬を止め定綱に言った。

「兼隆の後見の堤権守が山木の北の方におり、優れた勇士である。兼隆と同時に誅しておかなければ後々の煩(わざわ)いとなろう。佐々木兄弟は信遠を襲撃し、案内の者を付けよう」。

子の刻(午後十一時から御前一時)、定綱と高綱は時政の案内人に付けられた源藤太を連れ信遠の邸の後ろに回り経高は前庭から進み矢を放った。『吾妻鏡』には、「これが、平家を討伐する源家の最初の一夜であった。その時、月は明るく真上に光、昼間と変わらない程であった」と記される。信等の郎従も襲撃に対し矢を放ち、信遠も太刀を取り迎え討った。経高は弓をすて太刀を取り、信等に向かう。どちらも武勇は際立っていたが経高に矢が当たる。その時、背後から定綱と高綱が邸宅の背後から押し寄せ信遠を討ち取った。

 

 時政率いる武士は山木兼隆の館の前まで進み矢を放ち合戦を挑んだ。兼隆の郎従は三島社の神事の参詣のため黄瀬川宿に留まり不在であった。兼隆の館に残る僅かな郎従は死を恐れず時政らと戦い、信遠を討ち取った定綱兄弟は時政の軍勢に加わる。頼朝は軍兵を送り出し北条館で戦火を待ったが見ることが出来なかった。留守を命じ頼朝の警護の命を出した加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家を呼び、

「すぐに山木に赴き、合戦に加わるように」と仰せになり、手ずから長刀を取って景兼に与えられ、兼隆の首を討って持ち帰る様によくよく命じられた。三人は馬にも乗らず蛭嶋通りの堤を走り盛綱と景兼は厳命通り、兼隆の屋敷に打ち入り、兼隆の首を取った。兼隆の郎従も死を逃れる事は出来ず屋敷に火が放たれ全てが燃えついた時には朝になっていた。武士達は北条屋敷に戻り、館の庭に集まり、頼朝は兼隆主従の首をご覧になったという。

 

 同月十九日、山木兼隆の親戚に史大夫(いのたゆう:中原)知親が伊豆国の蒲屋御厨におり、日頃から非法ばかり働いて土地の人々を悩ませていたので、それを止めるように頼朝が御命令された。藤原邦通が奉行し、これが関東における施政の始めである。その文書は次の通りである。

「下命する 蒲屋御厨住民等の所に。

 早く史大夫知親の奉行を停止すべきこと。

 右、東国では、すべての国々の荘園・公領は皆(頼朝の)支配下に置くと、親王(以仁王)の宣旨に明らかであるので、住民等はそのことを弁(わきまえて)え、安堵しなさい。そこで、御命令になったところを特に命ずる。                   

 治承四年八月十九日」

 また、山木攻めを行ったこの時、土肥の辺りから北条にやって来る勇士たちが、走湯山を往還の道としていた。そのため狼藉が多く見られたと走湯山の衆徒たちが訴えて来たので、頼朝は今日、自筆の御書を送られ、宥(なだ)められた。世情が安定したならば、伊豆国で一ヵ所、相模国で一ヵ所の庄園を走湯山に寄進する事、関東において権現の御意向を輝かせるようにするとの趣旨を書いた。これにより、衆徒は怒りを収めたという。その夜、世上が落ち着くまで密かに寄宿するため、御台所の政子が走湯山の文陽房覚淵の房に渡った。藤原邦通と佐伯昌長らが供をしている。東国・坂東が動き出した。

 

この下命の以仁王の宣旨は、すでに以仁王が謀叛人として無効となっている。また、以仁王の宣旨は現在残されていないため『吾妻鏡』に記される内容を見ると、平家討伐であって、支配地の領有を帰していない。したがって寿永の宣旨が出るまで、山木攻めから始まる治承の乱は、本来頼朝の反逆・謀叛であったことを認識する必要があり、また頼朝が寿永の宣旨及び文治の勅許を如何に手中に収めるかが頼朝の政治家としての手腕を伺うことが出来る。 ―続く