坂東武士と鎌倉幕府 三十七、頼朝挙兵の決意 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 治承四年(1180)七月五日、頼朝は走湯山(そうとうさん)の僧侶・文陽房覚淵(ぶんようぼうかくえん)を招き、今日、北条の屋敷に参った。頼朝は覚淵に語った。

「私は心に思うところがあって、法華経の読経一千部を終えた後の真意を表明しようと以前から願っていたが、事態が急変したので、これ以上後に伸ばすことが出来そうにない。そこで、転読した分八百部でもって、仏に自身の願いを申し上げようと思うがどうであろうか」。

覚淵が申す。

「千部に達していないとはいえ、申されることは、仏の思し召しに背くものではありません」。

覚淵は、仏前に香花(こうげ)を備えてその趣旨を仏に申し上げ、表白(ひょうびゃく:言葉・文書にして申す事)を唱えた。

「君は(頼朝は)恐れ多い事に八幡大菩薩の氏人で、法華経八軸を護持する者です。八幡太郎源義家の遺跡を継承し、昔同様関東八ヶ国の武士を従えております。八逆を行う凶悪な八条入道相国(平清盛)の一族を対峙なさることは、掌(ななごろ)の内にあります。これはすべてこの法華経八百部を読誦したことの加護によるものです」。

頼朝はその言葉に感動し、儀式が終わると覚淵に布施を与え退出した。門の外に出た時呼び戻され、

「世の中が静まったならば、蛭島の地を今日の布施として与えよう」と仰せられた。

『吾妻鏡』治承四年五月五日条の記述である。私見であるが、法華経千部の読経が八百部の読経による大願の成就を問うているが、本来「大成を成して大願を成就する」事から、あえて語られている点、信憑性があるようにも思え、この時までに頼朝は平家討伐の挙兵を上げることを決意していたと考える。

 

 同月十日には、安達盛長が頼朝の厳命を受け、請け文を相模国の武士達を訪れが、波多野義常、山之内首藤経俊は呼びかけに応じず、悪態さえついた。波多野氏と山之内首藤氏は源氏累代の家人で、波多野義常の父・義通は妹を義朝の側室に置き、朝長が生まれている。保元平治の乱に義朝と共に従軍した。しかし頼朝が朝長の官位を超えて義朝の嫡男とされる事や、平治の乱で東国へ逃れる際に朝長が戦傷で死去し、頼朝が捕縛され、伊豆に流された事について、波多野氏の反感を買い、不和の原因となったと考えられる。義常は、頼朝挙兵時に敵対し、頼朝を石橋山に追い詰めたが、その後頼朝により追っ手を差し向けられ自害した。遺児の有常は伯父の波多野義景と共に許され、後の鎌倉幕府御家人となっている。

 

 山之内氏は藤原秀郷流山之内首藤氏で、母は頼朝の乳母・山内尼である。平治の乱で経俊は病のため参陣はせず、経俊の父・俊通と兄・俊綱が討ち死にしている。頼朝挙兵に対し「富士と背を比べたり、鼠が猫を狩る様な」として平家と頼朝の勢力の違いを嘲笑したとされる。石橋山で平氏方の大庭景親に属し頼朝に矢を放ったとされ、後に頼朝が再起した際降伏し捕縛され、土肥実平に預けられた。『吾妻鏡』治承四年十一月二十六日条に石橋山で平家方に付いた武士たち多くが赦免される中、経俊は斬罪に処せられる事が決まる。経俊の母・山内尼は頼朝の下を訪れ、父祖の山之内輔通入道が源義家に仕え、源為朝の乳母父であり源家累代への奉功を訴えて涙ながらに助命を求めたが、頼朝は経俊の名が記された矢の刺さった、当時自身が着用していた鎧の袖を見せると尼はそれを見て申す事もなく涙を拭いてその場を退出した。頼朝は老母の悲嘆を考え、先祖の功労を重視して晒し首の罪になるのを許されたという。その後経俊は、赦免され頼朝に臣従する。頼朝が挙兵を決意した翌月の八月に入ると相模国の大庭景義を始め去る五月の以仁王の挙兵による合戦のため在京していた東国の武士たちが多く帰京していた。


  

 頼朝の挙兵の当初の標的は、伊豆目代の山木兼隆であった。通説では、兼隆は検非違使少尉(判官)として平時忠(清盛の義弟、後妻の時子の弟)の下で仕えており、治承元年(1177)延暦寺の末寺の白山と加賀国司の間で争われた白山事件の責任を問われ延暦寺天台座主の明雲が伊豆に流される。途中で大衆が奪還し比叡山に帰還した。その際、兼隆は警備に当たっている。しかしその警護の不備を問われたのか、また『山槐記』治承三年一月十九日条によると、父の信兼の訴えで(詳細は不明)、一月に右衛門尉を解任され伊豆国山木郷に流されたとある。治承三年の政変の後、伊豆知行国主の平時忠から目代(国主に代わり在地に赴いた私的代官)に任ぜられ、伊豆韮山に館を構え伊豆に勢力を持つに至った。しかし、真偽のほどは定かではない。

 

 以仁王の乱後、伊豆国の知行国主が源頼政(伊豆守は息子の源中綱)から平時忠(伊豆守は猶子の平時兼)に交替したのは治承四年六月月二十九日で、時忠から目代に任じられた兼隆が頼朝に討たれたのは、それからわずか四十七日後のことであるため、兼隆が襲撃された理由は目代任命以前より頼朝と同じく中央から下ってきた流人として頼朝と勢力争いを続けたという説もある。頼朝の後見人として北条時政がいたように、兼隆にも同じ田方郡に進出してきた堤権守信遠が婿に迎え、後見人となった事が背景にあったとする見方もある。北条時政及び工藤茂光にとって西伊豆の利害を異にする競合相手であり、兼隆が国府を牛耳る目代に就いたならば対立は避けられない状況であったと見られる。なお平家の本来の追討目的は伊豆に潜伏していた源頼政の孫有綱で、頼朝が狙われたというのは誤報と考えられ、知行国主の交代によって厳しい立場に立たされる頼政の家人で剤庁長官の工藤茂光が有綱の代理として頼朝を持ち出したという説も出されている。 

 
 『曽我物語』『源平盛衰記』などで、北条時政が大番役で京へあがっていた間に娘の政子が頼朝と恋仲になるが、時政の帰国の道中で、政子と兼隆の縁談を進めていた時政はそれを知り、平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとした。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に庇護された。政子が二十一歳の時とされる。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかしながら兼隆の伊豆配流は治承三年(1179)の事であり、頼朝との子・大姫の生年が安元年間、又は治承二年とされ、政子との婚姻話は創作とされる。 ―続く