坂東武士と鎌倉幕府 三十六、平氏政権下の坂東 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 治承四年(1180)相模の三浦半島を領する三浦介義明の次男の三浦義澄と千葉常胤の六男胤頼が京の大番役の謹仕を終え国に戻る途中、伊豆の北条に参上した。頼朝はこの二人と会い、暫くの間、ひそやかに話されたが、その内容を他の者は知らない。坂東武士が直接見る京の情勢は、頼朝にとって間違いのない情報であり、特に源氏累代の従臣で平治の乱を生き残った三浦義澄の見る状況は確かなものであっただろう。

 平治の乱以降、東国・坂東の地の多くは、平家一門及びその同調する者により知行されていた。武蔵国国主は、平治の乱の勲功で平清盛の知行国となったと推測され、平氏政権では政権確立にこの知行国制を積極的に利用したと考えられる。永暦元年(1160)二月二十八日から仁安二年(1167)仁安元年(1166)十二月三十日まで清盛の四男・平知盛が八年の間国主にあった。仁安元年(1166)十二月に平頼盛の五男・平知重に、また治承三年(1179)二月に三善盛俊権守(次官)に一時変わった形跡あるが、定かではない。治承四年(1180)九月に清盛の七男・平知度が武蔵国の知行国主となっている。平は、長年同国を支配し、多数の平氏家人を獲得した。武蔵国は河内源氏の勢力が強い地域であった。

 

 東国最大・最強の武士団は、この間平家方に同調する。平知盛の武将としての才能・人間的魅力が大きく作用したと考えられる。武蔵国は在庁官人から中世武士団を多く輩出した。武蔵権守平将門の血を受け継ぐ平将恒を祖とする秩父平氏は将常の孫・重綱が留守所の総検校職に任ぜられて以来、同職を相伝し武蔵国内の秩父氏、豊島氏、葛西氏、畠山氏、河越氏、小山田氏、渋谷氏等の武士団を統率する。また、武蔵国多磨郡小野郷(現在東京都府中市または同多摩市と推定される地域)の小野牧別当出身の小野氏は小野諸興が武蔵権介兼押領使として着任、以後在庁官人として活躍したが、小野義孝は横山氏を称して武蔵七党横山党の祖となった。日野宮神社の社家出身と目される日奉氏は宗守が武蔵権守となり、十一世紀世紀以降に在庁官人職を一族で分け持っている。武蔵七党の一つ西党(小川氏・油井氏・細山氏等)の祖となっている。これらの武士団は後に源頼朝挙兵後、頼朝に臣従し鎌倉幕府を支える主要な御家人を輩出した。

 

 相模国は仁平二年(1152)一月二十八日から久寿二年(1155)十二月十五日まで藤原親弘が国主とされるが、その後の文治元年(1185)八月に平賀(大内)惟義が就任するまで国主が不在であるか定かではない。相模国は親王任国ではないが平安中期ごろから、在地の有力豪族から領主階級が成長している。鳥羽院の知行国となり、彼らは荘園を名目的に中央貴族や大寺社に寄進を行い、自ら荘司として実権を握り次第に武士団が形成されて行った。広大な大庭御厨が伊勢神宮の荘園であった大庭氏や、三浦半島を支配した三浦氏は三浦介を号し在庁官人として勤めている。また、相模国高座郡渋谷荘の渋谷氏等から窺うことが出来る。平家に臣従する事で優位に立つ者と、累代の源家に忠誠を誓う者との相違が源頼朝の挙兵後の対応に大きく差を生じさせた。

 伊豆国は、平治の乱の勲功で源頼政が平治元年(1159)十二月十日に国主に叙任され、その後子息又は一門が国主を継いでいた。在地豪族の伊東氏が大庭氏と共に平家に臣従しており、伊豆での勢力は平家によって後押しされている。源頼朝の挙兵時、石橋山での合戦で大庭氏と共に頼朝を追撃した。平家を壇ノ浦で滅ぼして従二位となった頼朝は、政所を設置して、文治元年の八月には新田(山名)義教が伊豆の国司に任官させ、建久六年頃まで就いている。

 

 下野国は、天慶三年(940)二月十四日、天慶の乱で平将門を討伐した藤原秀郷が下野守に叙任され押領使を兼任した。その後、大治二年(1127)に藤原親通が下野守に任ぜられる。仁平三年(1153)から平治元年十二月十日まで義朝が叙任された。その後、治承元年(1185)に醍醐源氏の藤原季広が任官されている。

 下総国は、藤原北家為光流の下野守であった藤原親通が下総守に任ぜられ、保延二年(1136)には千葉重胤から相馬御厨や立花荘を召し上げた。親光の子・藤原親盛が親平家勢力として下総守を継承する。応保元年(1161)に千葉常胤が下総権介に任官され、その後中原氏、藤原朝臣、源朝臣、橘朝臣等多くの氏族が任官している。

 常陸国、上野国、上総国の三国は親王任国(しんのうにんごく)で、親王が現地に赴かない遙任(ようにん)で国主は請け負った介・掾・目が実質的に支配した。常陸国久安三年(1147)に平家盛が任官し、久安二年(1149)平頼盛、保元元年(1156)に平経盛、保元三年(1158)平の頼盛が再任、永暦元年(1160)平教盛が任官している。清和源氏義満流の佐竹氏が親平家の位置を保っていた。平家鎌倉幕府創立後島津忠景が任官している。

 上野国は、後白河院政後期に藤原南家高倉流の藤原範季らが叙任されている。

 

 上総国は上総常澄が権介に任ぜられ、その後に嫡男の広常と諸兄の常景・常茂と上総氏の家督を巡り内紛が起こった。治承三年(1179)十一月に平家有力御家人伊藤忠清が上総氏に任ぜられ、広常は国務を巡り対立した事で平清盛に勘当されている。一国を支配するまでに至りつつあった広常は、親平家を脱して、頼朝挙兵後に、頼朝に臣従する。

この様に東国・坂東の地で、源家累代の従臣が平治の乱以降に平家に臣従し、利益を得た者と、そうでない者とが分かれ、頼朝の挙兵時に分裂することになる。しかし、東国・の武士は、平将門の乱より朝廷からの独立思考を掲げていたように思われる。しかし、その独立は、朝廷を討つ事ではなく、朝廷と対等に施策を行い、東国を安定させ自領を守り、安堵するための方策であった。ここに東国・坂東の武士たちが、貴種・源頼朝を担ぎ上げることにな。 ―続く