『吾妻鏡』四月九日条によると、「入道三位頼政卿は、平相国禅門清盛を討ち滅ぼそうとかねてから準備していた。しかし、自分一人の力ではとても前々からの願いを告げることは難しいので、この日、子息伊豆守中綱を伴い一院(後白河)の第二皇子である以仁王がお住いの、三条高倉の御所にひそかに参上した。「先の右兵衛佐源頼朝をはじめとする源氏に呼び掛けて平氏一族を討ち、天下をおとりになってほしい。」と申し述べると、(以仁王は)散位(位階はもつが任官していない(藤原)宗信に命じて令旨を下された。そこで廷尉(源)為義の末子である陸奥十郎義盛が折しも在京していたので、「この令旨を携えて東国に向かい、まず頼朝に見せた後、その他の源氏にも伝えるように。」とよくよく仰せられた。義盛は八条院の蔵人に任ぜられ名乗りを行家と改めた」。(五味文彦・本郷和人編「現代訳語 吾妻鏡』一頼朝の挙兵)。
同月二十七日、以仁王の令旨がこの日、源行家により伊豆の北条館に居る頼朝の下にもたらされる。 頼朝は水干に改め男山の方を遥拝した後、謹んで開いて見た。頼朝の叔父である源行家は、甲斐・信濃の源氏に触れるため、すぐにその国へと向かう。頼朝は、前右衛門督(藤原)信頼による保元の乱での縁坐により、永暦元年三月十一日に伊豆国に流されて以来二十年の歳月を送り、愁えながら三十二歳あまりになっていた。上総介平直方朝臣の後代の孫に当たる北条四郎時政主は伊豆の豪傑であり、頼朝を婿として以来、常に無二の忠節を頼朝に示し、頼朝は時政を呼び令旨を開いて見せた。
「下命する 東海、東山、北陸三道諸国の源氏並びに軍兵等の所に。早く、清盛法師及びその従類た地謀叛人の輩を追討すべきこと。
右の事は前伊豆守正五位下源朝臣中綱が命ずる。「最勝王(以仁王)の勅命を受け取った。清盛法師と(平)宗盛に任せて凶徒に命じて国を滅ぼし、百官万民を悩ませ、五畿七道の国々を不当に支配し、上皇を幽閉し、廷臣を流罪に処して、命を断ったりその身を流し淵に沈めたり幽閉するなどして、財物を掠め取り国を領収し、官職を奪い与え、功の無い者を称し、罪の無い者を罰している。諸寺の高僧を拘禁して学僧を国に下し、また比叡山に絹や米を下して謀叛の際のの兵糧米としている。百王の継承を断ち、摂関を抑え、天皇・上皇に逆らい、仏法を滅ぼすとは、前代未聞のことである。そのため、天地はみな悲しみ、民は皆愁えている。そこで私は、一院(後白河)の第二皇子(実際は第三皇子。同母兄・守覚法親王が仏門に入ったため)として、天武天皇の昔にならって王位を奪う者を追悼し、上宮太子(じょうぐうたいし:聖徳太子)の先例に従い、仏法を滅ぼすものを打ち滅ぼそうと思う。ただ人力による用意の身を頼りとせず、ひたすら天道の助けを仰ぐものである。もし三宝と神明の思し召しがあれば、どうしてすぐにも全国の合力を得られぬことがあろうか。そこで、源氏の者、藤原氏の者や前々より三道諸国に勇士として名高い者は、追討に協力せよ。もし同心しなければ、清盛に従う者に准じて死罪・流罪・追討・公金の刑罰を行う。もし特に功績のあった者は、まず諸国の使節に伝え置き、御即位の後に必ず望み通りの褒賞を与える」。諸国は、よく承り、この命令通りに実行せよ。
治承四年四月九日 禅伊豆守正五位下源朝臣(中綱)」
五月十日、源頼政に仕えていた下総国下河辺に本拠を置く、下河辺庄司行平(秀郷流藤原氏)が頼朝に使者を送り源頼政が挙兵の準備をしていることを報告した。しかし十五日には、平家追討の令旨を下したことが露見し、以仁王を土佐国へ配流する宣旨が出される。検非違使の源兼綱、土岐光長が随兵を率い以仁王のいる三条高倉御所に向かった。以仁王は頼政から連絡を受け、すでに逃げ出されていた。十九日、以仁王は十五日にひそかに三井寺(園城寺)に入られ、三井寺の衆徒が支院の法輪院を以仁王の御所にしたという噂が京に広まる。頼政は近衛河原の自邸に火を放ち、一族・家人を率いて以仁王のいる三井寺に向かった。二十六日、以仁王は三井寺岳の軍勢だけでは事の成就が足らず、南都の興福寺の衆徒を頼り、奈良に向け出発する。頼政の一族と三井寺の衆徒が供に参じた。平知盛・維盛の率いる軍勢二万が以仁王を追い、宇治の辺りで合戦となる。頼政と子息仲綱、兼綱、仲家、及び足利判官代義房らに討たれ、首は晒された。以仁王もまた光明山(京都府相楽郡山城町綺田光明仙)の鳥居の前で最期を遂げられた。享年三十歳という。
伊豆に流罪中の頼朝へ、比企尼の甥である三善康信から定期的に都の情報が送られていた。『吾妻鏡』治承四年六月十九日条に、十日に一度、毎月三回の使者を送って、洛中の情勢を伝えていた。この日には、康信は弟の三善康清と相談し、病気と称して朝廷への出仕を休ませ、使者として手紙を持たせ遣わしている。この日、伊豆に到着し、その手紙に書かれた内容は、
「先月二十六日に高倉宮(以仁王)が討ち死にされた後、以仁王の令旨を受けた源氏は、すべて追討せよという命令が出されています。あなた様は源氏の正統ですから、特に御注意が必要です。早く奥州の方にお逃げください」。緊急を要する手紙であった。
六月二十二日、三善康清が京に戻った。頼朝は詳しい手紙を送り、康信の功績に感謝した。治承年間に京を出て伊豆に下り、安達盛長の推挙で頼朝に仕えていた大和判官藤原国通が執筆し、頼朝が一筆書き加えて花押を据えた。
同月二十四日、三善康信の情報を噂と聞き流すわけには行かず頼朝は逆に平家追討の計略をめぐらした。御書を送り源氏累代の御家人達を呼び寄せるため安達盛長を使者として中原光家を副えられたという。また、東国の武士が京に大番役として勤仕した後、頼朝に京での情勢を伝えている。同月十七日、三浦義明の次男の三浦義澄と千葉常胤の六男胤頼が京から国に戻る途中、北条に参上した。
平安時代の京都の治安維持と民政を管轄するのは、検非違使であった。平安末期になると北面の武士が軍事及び警察権を行使するようになる。しかし、御所及び院(後には摂関家も)の警護に当たる京都大判役として地方の武士等が担っていた。任期が三年であり、遠方の武士や東国の武士にとって経済的負担が多く、所領において問題が発生すると迅速な対応が困難に陥ることもあり、大番役として京都に上るのは家の当主、または子息が担う。当主が京にいる間に所領で問題が起こった場合に迅速な対応が取れず、また子息が京で謹仕した場合には、所領で当主が亡くなった場合に親族による所領の押領が起こる事もあった。しかし、武士にとって、大番役で京に上る事は、公卿に近づく機会でもあり、自身の荘園の領主たる公卿との結びつきを強めることや、大番役を通じて官位を得る事も可能であった。もちろん公卿等に献上する物の負担は大きかったが、それにより自らの所領が、国の介・権介・掾という国司の次官職に叙任され、朝廷による権威を下に在庁長官の地位を得て所領及び郷・郡・国の支配権を確立する事も可能であった。保元の乱で敗れた源義朝配下の武士は見の地よりも大事な自身の所領を守るため、平家に仕えたり、京での勤仕を行う事でしたたかに生きていた。その後、頼朝が幕府を創設してからは、まず坂東武士の経済負担である大番役の謹仕の任期を半年としている。これは、武士の負担軽減に重きを置いているが、御家人が朝廷及び公卿に近づき、勝手に叙任されないようにする手段であったとも考える。もちろん頼朝は挙兵後、御家人に頼朝の推挙無くしては叙任を受ける事を禁じている。承久の乱以降、武士が公卿に対し優位になると三ヶ月と短縮された。 ―続く