源頼朝が伊豆に流罪中に平家は栄華を極める。平清盛は、強大な軍事力と経済力で、一門の子女を摂関家及び朝廷に入内させ、律令政権下での公卿の立場で公的影響力を高めていった。
当時、二条天皇は平清盛の後援により政治方針を巡って対立した後白河院の院政を停止状態に置いていた。二条天皇の異母弟・憲仁親王(後の高倉天皇)は、母・平滋子であり、平清盛の妻・時子の異母妹で、政界の実力者となった清盛の義理の甥にあたる。永万元年(1165)七月に二条天皇が崩御すると、その死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)より憲仁親王は三歳の年長であった。仁安元年(1166)十月十日、皇太子に立てられる。そして同月二十六日、摂政近衛基実が急死し、後白河院制が復活した。基実の子・基通が幼少であるため基実の弟松殿基房が摂政となる。基実が領していた摂関家領の移動は、平家に大打撃を与える事となり、清盛は近衛家家人藤原邦綱の助言により藤原氏長者に伝領される殿下渡領・勧学院領・美道流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させ、摂関家領の管轄に成功させた。
(写真:ウィキペディアより引用 二条天皇像、後白河法皇像)
憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子に立つと清盛は春宮大夫(とうぐうだいゆ:皇太子の御所の内政を司る)となり、十一月には太政大臣に叙任される。しかし清盛は、福原開拓を行い日宋貿易に専念するために翌年五月に辞任した。『兵範記』によると嫡子・平重盛を東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下される。重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立した。さらに重盛は丹後・越前を知行国として、経済的にも嫡子たる一門の中で最も優位な立場となる。二年後の仁安三年(1168)二月十日、六条天皇をわずか五歳(満三歳)で退位させ、高倉天皇が八歳で天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷き、翌嘉応元年(1169)後白河院は出家して法皇となるが、清盛は、後白河院に協調を計るため共に東大寺で受戒をして出家している。
(写真:ウィキペディアより引用 平清盛像、平重盛像)
『平家物語』第一巻「禿髪」の節では、この平家の栄華を清盛の義弟・時忠が「この一門にあらざる者は皆人非人なり」と言ったと記され、その後「平家にあらずんば人にあらず」という慣用句で知られている。ただし、この「人非人」とは「宮中で栄達できない人」程度の比較的軽い意味だとされる。また「吾身栄花」には、「吾身の栄花究流のみならず、一門に繁盛して、嫡子重盛陪大臣の差大将、次男宗盛中納言の右大将、三男知盛三位中将、着系維盛四位少将、すべて一門の公卿十六人殿上人三十余人、諸国の受領・衛府・所司都合六十余人なり。世には又人なくぞ見られける」と記された。承安二年(1172)、高倉天皇は、平清盛と時子の娘(従姉に当たる)時子(後の建礼門院)を中宮に迎える。安元二年(1176)建春門院の死を契機に、清盛の勢力の伸張に対し後白河院及び院政派は不快感を示し、清盛と対立を深めていく。
治承元年(1177)六月に鹿ヶ谷の陰謀が多田行綱(摂津源氏系多田源氏)の密告により露見した。清盛は院近臣者の排除を行い首謀とされる院近臣・西光(藤原師光:信西の乳兄弟)を処刑。藤原成親は保元の乱と同様、婿の平重盛により死罪は免れ備前国に流罪。しかし『愚管抄』で食物を与えられず殺害されたと記され、『百錬抄』では七月九日死去と記されている。俊寛、藤原成親、平康頼等は喜界ヶ島(現鹿児島県)への流罪となった。後白河法皇に対しては罪を問うていない。
(写真:京都 鹿ヶ谷安楽寺と哲学の道)
鹿ヶ谷の陰謀が事実であったかは定かではなく、この事件の直前に後白河法皇が出した延暦寺攻撃命令が平家と延暦寺との抗争で平家に「仏敵」の汚名を着せ、延暦寺攻撃の仏罪にとして平家滅亡に追い込む陰謀であったとする説がある。鹿ヶ谷の陰謀は、延暦寺との抗争を回避するために行われた手段であったとも考えられる。
治承二年(1178)十一月十二日、中宮・徳子に皇子(後の安徳天皇)が誕生し、同年十二月十五日には皇子を早々に皇太子とした。治承三年(1179)六月、清盛の娘・盛子が死去した。盛子は近衛基実の正室であったため基実の死後、領地を所有していたが、後白河法皇は直ちに盛子の所領を清盛に無断で没収した。さらに清盛の・嫡子重盛が四十二歳で病死し、再び重盛の知行国である越前国を没収する。そして後白河法皇は、二十歳になる近衛基通を差し置き、八歳になる松殿師家を中納言に任じた。この人事で摂関家嫡流の地位を近衛家から松殿家に移された事となる。近衛基通の室は清盛の娘・完子であり、近衛家を支持していた清盛は、度重なる後白河法皇の仕打ちに対し憤慨する。
(写真:ウィキペディアより引用 高倉天皇像)
同年十一月十四日、清盛は福原から軍勢を率い上洛し政変を決行した。『治承三年の政変』である。清盛は松殿基房・師家親子を始め藤原師長等、貴族八名殿上人・受領・検非違使等三十一人、合わせて三十九人を解官させ、代って親平家の公卿を任官した。後白河法皇は恐れを覚え清盛に許しを請うが、清盛は許さず、十一月二十日には鳥羽殿に幽閉とし、事実上完全に後白河院政は停止する。治承四年(1180)二月、高倉天皇が譲位し、言仁親王(安徳天皇)が践祚した。安徳天皇の母は清盛の娘・徳子であり、高倉上皇の院政が始まるが、平家の傀儡政権であった。しかし、法皇を幽閉し清盛が政治の実権を握った事で多くの反平氏の勢力を生み出すことになる。保元・平治の乱の原因を後白河法皇とすることには問題があるが、平治の乱の要因は後白河法皇の失政があったことはじじつであり、これからの治承寿永の乱の原因は、間違いなく後白河法皇である。『愚管抄』において父・鳥羽法皇が「酷く評判になるほど遊芸にふけておられるので、即位させるような器量ではないとお考えになった」と、記されている。
高倉天皇が言仁親王に譲位した事が、大きな乱の予兆となった。後白河院の第三皇子以仁王は、母方の叔父である権中納言・左衛門督藤原公光が失脚し、皇高倉天皇が安徳天皇に譲位した事から位継承の可能性が消滅し、親王宣下も受けられなかった。そして治承三年の政変で長年知行していた城興寺領を没収され、治承四年(1180)四月、源頼政の勧めに従い平氏討伐を決意する。平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した令旨(りょうじ:律令制のもとで皇太子・三后の命令を伝える文書)を全国の源氏に発した。自らも「最勝親王」として挙兵を試みるが、計画が露見し、同年五月十五日、平家の圧力により勅命と宣旨により皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」となり土佐国の配流が決定する。その夜、検非違使の土岐光長と源兼綱が以仁王の館を襲撃するが、すでに脱出していた。十六日には以仁王は園城寺に逃れたことが判明し、二十一日に平家は園城寺の攻撃を決定される。源頼政は子息を率い園城寺に入るが、園城寺と延暦寺が対立関係であったために協力が得られず南都の寺院勢力を頼ることを決めた。
(写真:ウィキペディアより引用 以仁王像、源頼政像)
治承四年(1180)五月二十六日、頼政が宇治を攻防している間に以仁王は南都の興福寺に向かうが、同日南山城の加幡河原で平氏の家人・藤原景高、伊東忠綱らに引き入る追討軍に追いつかれ討たれる。『平家物語』では光明山鳥居前で飛騨景家の軍勢に討ち取られたと記されている。源頼政が以仁王に挙兵を勧めたとされるが、平清盛にも保元平治の乱以降、信頼を得て清盛の推挙もあり、清和源氏で初めての従三位に就いている。頼政は元々鳥羽院に仕え寵妃の美福門院や、それらの院近臣、藤原家成に交流を持っていた大内守護(皇室警護の近衛兵等)の京武者であった。したがって、保元の乱においても美福門院、後白河天皇派に与している。平家が討伐軍を編成した際、頼政はその軍勢に加わっており、園城寺攻めを決定した際反した事から大内守護の京武者として以仁王の挙兵に加担したとする説もある。
(写真:奈良興福寺)
以仁王の発した令旨により諸国の源氏が動き出すことになるが、朝廷は当初、その令旨を偽物と考えていた。しかし、以仁王が高倉天皇(以仁王の異母弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に代わり即位する事を仄めかす文章が含まれていた事が判明する。後白河法皇が自ら選んで皇位を継承させた高倉天皇を廃し以仁王が皇位に就く事は、法皇の権威を失落させる事であり、皇位簒奪を謀った者として取り扱われた。『玉葉』建久七年(1196)正月十五日条には、乱から十六年が経過した時にも以仁王は「刑人」と呼称され謀叛人の扱いを受けている。また、この令旨が出された時は既に親王宣下を受けられておらず、その令旨の有効性は無い。この令旨を受け挙兵した事は、朝廷に対し謀叛を起こす事であった。 ―続く
(写真:京都宇治橋と平等院)