坂東武士と鎌倉幕府 二十九、池禅尼の訓戒 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 池禅尼の様々な言上により頼朝の私財は寛大に処理され、伊豆への流罪となった。兵衛佐(頼朝)が配流になる前に池禅尼は、自邸に呼び、

「昨日までは、そなたの事に心を砕いてきましたけれども、今日は早く、喜ばしい事になって伊豆国とかいう所に流されるそうな。この尼は若く元気だった時から、可哀そうで同情したくなる事すらもあれば、聞いて我慢できない心の持ち主で、多くの者達が命を願い出て助け、切られそうな首をも繋いできた。今は、この様な老いぼれの役に立たぬ尼の有様ゆえ、私が申す事も耳慣れて、大弐殿は、決して聞き入れまいと思われましたけれども、もしかしてと考えて、申し入れてみましたら、それには、決してよらないでしょうけれど死罪とかは許されました。尼の命があるうちの喜びとしては、これに勝ることが、今後、再び有ろうとは思いません」

と言うと、兵衛佐頼朝は、

「あなた様の御恩によって、命を助けていただきました。この親切な御芳志、どれほど生まれ変わったとしても、どうしてお報い尽くすことが出来ましょうか。東国への道中でどのようにかなり、伊豆国で辛い目を見ましょうとも、何の恨みもありましょうか。ただし、はるばる下向する道中で召し使う者が一人もおりませんでは、旅の日々が辛い事になるでしょう」

と、申すと、池禅尼は、

「それはそう思うでしょう。あなたの父や祖父の時から召しつかわれてきた者は多くいるでしょうけれど、警戒して出て来ることが出来ないのでしょう。刑を許されたと世に公にすれば、どうして長年仕えてきた者たちが、現に出て来ない事がありましょうか」と、仰った。

 

 頼朝が弥平兵衛宗清に相談して事を公にしたところ、従者や下人連中、七、八十人が出て来た。その内に、家人が三十余人いたが、この家人たちが心等しく申すのは、

「さあ御出家なさり、池殿にもこれなら安心と思われなさってから、伊豆国へも御下向なさりませ」

という。その中で纐纈(こうけつ)源五守康だけが、

「どんな風に人が申しましょうとも、聞かないふりをして、出家などせずに御髻(おんもとどり)を大切になさりませ」

と、耳にささやいた。ある時、康盛が申したことは、

「千人の内の一人でもおられる貴重な身が助かりなさったのは、ただ事では決してありますまい」

八幡大菩薩の御配慮でございましょう」

と言うと、頼朝は、誰かが、

「髻を切りなさい」

と言っても返事もせず、

「切ってはいけません」

というにも、沈黙していた。その中の心中は恐ろしい事であった。

 

 永暦元年(1160)三月二十日、兵衛佐頼朝は、伊豆国へ流されると世に伝わり、池禅尼邸へいとまを申すために参上した。池殿は、簾をかかげて頼朝をご覧になり、

「近くに、近くに」

と召し寄せてつくづくと見守りなさり、

「このように、生きるに難しい命をお助けしましたからには、この尼の言葉の端々まで、少しも違えるような事があってはいけません。弓矢・太刀・刀と言った武器は、目に見たり、手に取ったりしてはいけません。狩猟・魚の漁の遊びもまた、思い立ってはいけません。噂好きの人の口は、意地悪い物ですから、どのようなよこしまな言葉の被害に遭い、この尼の短い余命の内で、再びつらいことを聞くことになりましょう。そうならないように気を付けてください。あなた自身もまた、再び辛い目に遭う事は悔しいでしょう。どのような前世での所業の報いで、親子でもない貴方という人を、これほど愛おしく思うのでしょう。人の嘆きごとを引き受けて、自身の心を苦しめる私です」

と言って涙をせき止めることが出来ないご様子と見て頼朝は、今年十四になった春で、思えばまだ幼き年齢のはず、それでも人の誠心誠意がよく分かり、涙にむせんで顔を上げることが出来なかった。時が経ち、涙を抑えて申した事は、

「頼朝は、昨年三月一日に母に先立たれ、今年正月三日に父と死別しました。間違いなく孤児となって、「ああ、可哀そうに」と申す人すらおりませんのに、この様にお助け下さりましたからは、その恐れはございますが、父とも母とも、こちらの御方、禅尼様をお頼り申し上げます」

と言って、さめざめと泣いたので、池殿は、

「確かに、そう思うでしょう」

と言って、また涙を流された。そして、

「人は皆、亡き父母のための追善供養の気持ちがあれば、神仏の加護もあり、命も長くあるそうです。経を読み、念仏を申して、父母の後世を弔いなさい。この尼の子に、右馬頭家盛という者がいました。その幼かった時の面影を思い出して、貴方の事を愛おしく思うようになりました。

 

 家盛は、鳥羽院にお仕えして、実力、この上なかったのに、今の大弐清盛がまだ中務少輔と申していました時、祇園の神社で事件を引き起こし、比叡山の大衆に訴えられて遠流になさるべきとの建議があったので、鳥羽院がお考えを迷っておられた時に、

「清盛の流罪決定が遅々として進まないのは、弟の家盛が邪魔しているからだ」と言って、大衆が様々に呪いをかけているという噂が立ちましたが。比叡山を守る日吉神社の参王権現の御祟りと言う事で、二十三年の年に亡くなりました。家盛に先立たれて、一日いや片時もこの世に生きていられるだろうとは思いませんでしたが、はや十一年になりました。昨日までは家盛のことにそなたの事も加わって辛かったのに、今日こそ、涙が途絶える時となりました。将来、まだ長くある貴方の身は、年月を経て都に召し返されるときもあるでしょう。今日明日ともわからぬ年老いた私の命は、それを夏という希望もありません。これこそ、貴方と会える最後と思うと、ただ名残りが惜しい事です」と言って、お泣きになるので、頼朝もますます涙で袖を濡らした。

 池禅尼の子・家盛は、清盛の異腹の次弟で、久安三年(1147)六月に祇園乱闘事件を起こした清盛に代わり朝廷で重んじられるようになる。久安五年(1149)二月に鳥羽法皇の熊野詣に病を押して同行するが、参詣の途中で病が悪化し、都に戻る宇治川の落合あたりで死去した。父平忠盛は深く悲しみ、乳母父の平の惟綱派吉報を聞き駆け付け、悲しみのあまりその場で出家したという。家盛の死により、清盛が父忠盛の嫡男としての立場が確立したとされ、家盛が存命であれば保元の乱において平家一門は分裂した可能性もあると言われる。 ―続く

 

(写真:ウィキペディアより引用 鳥羽法皇、後白河法皇)

 池禅尼の様々な言上により頼朝の私財は寛大に処理され、伊豆への流罪となった。兵衛佐(頼朝)が配流になる前に池禅尼は、自邸に呼び、

「昨日までは、そなたの事に心を砕いてきましたけれども、今日は早く、喜ばしい事になって伊豆国とかいう所に流されるそうな。この尼は若く元気だった時から、可哀そうで同情したくなる事すらもあれば、聞いて我慢できない心の持ち主で、多くの者達が命を願い出て助け、切られそうな首をも繋いできた。今は、この様な老いぼれの役に立たぬ尼の有様ゆえ、私が申す事も耳慣れて、大弐殿は、決して聞き入れまいと思われましたけれども、もしかしてと考えて、申し入れてみましたら、それには、決してよらないでしょうけれど死罪とかは許されました。尼の命があるうちの喜びとしては、これに勝ることが、今後、再び有ろうとは思いません」

と言うと、兵衛佐頼朝は、

「あなた様の御恩によって、命を助けていただきました。この親切な御芳志、どれほど生まれ変わったとしても、どうしてお報い尽くすことが出来ましょうか。東国への道中でどのようにかなり、伊豆国で辛い目を見ましょうとも、何の恨みもありましょうか。ただし、はるばる下向する道中で召し使う者が一人もおりませんでは、旅の日々が辛い事になるでしょう」

と、申すと、池禅尼は、

「それはそう思うでしょう。あなたの父や祖父の時から召しつかわれてきた者は多くいるでしょうけれど、警戒して出て来ることが出来ないのでしょう。刑を許されたと世に公にすれば、どうして長年仕えてきた者たちが、現に出て来ない事がありましょうか」と、仰った。

 

 頼朝が弥平兵衛宗清に相談して事を公にしたところ、従者や下人連中、七、八十人が出て来た。その内に、家人が三十余人いたが、この家人たちが心等しく申すのは、

「さあ御出家なさり、池殿にもこれなら安心と思われなさってから、伊豆国へも御下向なさりませ」

という。その中で纐纈(こうけつ)源五守康だけが、

「どんな風に人が申しましょうとも、聞かないふりをして、出家などせずに御髻(おんもとどり)を大切になさりませ」

と、耳にささやいた。ある時、康盛が申したことは、

「千人の内の一人でもおられる貴重な身が助かりなさったのは、ただ事では決してありますまい」

八幡大菩薩の御配慮でございましょう」

と言うと、頼朝は、誰かが、

「髻を切りなさい」

と言っても返事もせず、

「切ってはいけません」

というにも、沈黙していた。その中の心中は恐ろしい事であった。

 

 永暦元年(1160)三月二十日、兵衛佐頼朝は、伊豆国へ流されると世に伝わり、池禅尼邸へいとまを申すために参上した。池殿は、簾をかかげて頼朝をご覧になり、

「近くに、近くに」

と召し寄せてつくづくと見守りなさり、

「このように、生きるに難しい命をお助けしましたからには、この尼の言葉の端々まで、少しも違えるような事があってはいけません。弓矢・太刀・刀と言った武器は、目に見たり、手に取ったりしてはいけません。狩猟・魚の漁の遊びもまた、思い立ってはいけません。噂好きの人の口は、意地悪い物ですから、どのようなよこしまな言葉の被害に遭い、この尼の短い余命の内で、再びつらいことを聞くことになりましょう。そうならないように気を付けてください。あなた自身もまた、再び辛い目に遭う事は悔しいでしょう。どのような前世での所業の報いで、親子でもない貴方という人を、これほど愛おしく思うのでしょう。人の嘆きごとを引き受けて、自身の心を苦しめる私です」

と言って涙をせき止めることが出来ないご様子と見て頼朝は、今年十四になった春で、思えばまだ幼き年齢のはず、それでも人の誠心誠意がよく分かり、涙にむせんで顔を上げることが出来なかった。時が経ち、涙を抑えて申した事は、

「頼朝は、昨年三月一日に母に先立たれ、今年正月三日に父と死別しました。間違いなく孤児となって、「ああ、可哀そうに」と申す人すらおりませんのに、この様にお助け下さりましたからは、その恐れはございますが、父とも母とも、こちらの御方、禅尼様をお頼り申し上げます」

と言って、さめざめと泣いたので、池殿は、

「確かに、そう思うでしょう」

と言って、また涙を流された。そして、

「人は皆、亡き父母のための追善供養の気持ちがあれば、神仏の加護もあり、命も長くあるそうです。経を読み、念仏を申して、父母の後世を弔いなさい。この尼の子に、右馬頭家盛という者がいました。その幼かった時の面影を思い出して、貴方の事を愛おしく思うようになりました。

 

 家盛は、鳥羽院にお仕えして、実力、この上なかったのに、今の大弐清盛がまだ中務少輔と申していました時、祇園の神社で事件を引き起こし、比叡山の大衆に訴えられて遠流になさるべきとの建議があったので、鳥羽院がお考えを迷っておられた時に、

「清盛の流罪決定が遅々として進まないのは、弟の家盛が邪魔しているからだ」と言って、大衆が様々に呪いをかけているという噂が立ちましたが。比叡山を守る日吉神社の参王権現の御祟りと言う事で、二十三年の年に亡くなりました。家盛に先立たれて、一日いや片時もこの世に生きていられるだろうとは思いませんでしたが、はや十一年になりました。昨日までは家盛のことにそなたの事も加わって辛かったのに、今日こそ、涙が途絶える時となりました。将来、まだ長くある貴方の身は、年月を経て都に召し返されるときもあるでしょう。今日明日ともわからぬ年老いた私の命は、それを夏という希望もありません。これこそ、貴方と会える最後と思うと、ただ名残りが惜しい事です」と言って、お泣きになるので、頼朝もますます涙で袖を濡らした。

 

 池禅尼の子・家盛は、清盛の異腹の次弟で、久安三年(1147)六月に祇園乱闘事件を起こした清盛に代わり朝廷で重んじられるようになる。久安五年(1149)二月に鳥羽法皇の熊野詣に病を押して同行するが、参詣の途中で病が悪化し、都に戻る宇治川の落合あたりで死去した。父平忠盛は深く悲しみ、乳母父の平の惟綱派吉報を聞き駆け付け、悲しみのあまりその場で出家したという。家盛の死により、清盛が父忠盛の嫡男としての立場が確立したとされ、家盛が存命であれば保元の乱において平家一門は分裂した可能性もあると言われる。 ―続く