永暦元年三月二十日に未明、頼朝は六波羅の池殿邸を出て、流罪地である遥か東国の伊豆の地に旅立った。供をする者は、当初多くいたが、洛中の粟田口までの間に、従う者は三、四人にすぎなくなっていた。纐纈(こうけつ)源五盛康は、旅支度をして大津までと言う事で供をする。
頼朝は、
「たくさん見えた者たちは、何で見えないのか」と仰ると、
「遥かに遠い地へ下りますので、あるいは妻子、あるいは父母との名残惜しんで、遅れてやって参りましょう」、と盛康が申したが、その後は誰も現れなかった。
(写真:京都六波羅蜜寺)
頼朝は、笑いながら人は皆、流罪のことを嘆くが、切られて当然の身が流される者となり、それに付き従わないのも道理な事であると思う。しかし、都への名残惜しさは、どうしようもなく所々で馬を止めて後ろの都を振り返る。
頼朝は、内裏に勤める六位の蔵人であったために宮中での人々の交流を思い出し、また皇后宮の役人であったから、その名残も忘れられなかった。
「父にも母にも縁のおありでなかった池殿の御助けを受け、その上に人情が厚く、深い恩を受けたあの人をすら今となっては見申し上げることが難しい」。
と思い、敵陣の六波羅さえ、名残惜しく思いながら先を進む。
罪人を都から追い立てる追立(おつたて)の使者は、下級役人の青侍(年若い)、季通である。粟田口(三条通りの白川橋から東の毛上げ付近まで間)、の辺りから道中で行き交う者から物を奪い取るのを見て、
「そんな風にしてはならない。この頼朝が下向する時に、道中で狼藉があったと噂になっては、穏やかではない」
と、頼朝が言って止めさせた。供をする纐纈源五盛康は、
「どこまでもお供をすべきでありますが、八十を超す置いた母が、今日とも明日とも余命の分からぬ身ですので、盛康に別れることを、あまりにも歎き申します。この老尼がどうにかなりましたらば、急ぎ東国に下り奉公いたします。この度は、せめて瀬田まで」
と言って、瀬田川を船で渡った。
「あそこに見える杉林の前に鳥居が立っているのは、どの様な神が祀られておられるのか」
と、頼朝が問うと盛康は、
「瀬田は近江国の国府に当たりますので、きわめて格式の高い神が祝い祀り申し上げているのでしょう」
と答えると、頼朝が再び問われる、
「名を何の宮と申すのか」
盛康は、答えた。
「建部(たけべ:大津市神領にある建部大社。本殿祭神は日本武尊ヤマトタケル)の神社と申します」
頼朝は、盛康を見て
「今夜は、あの神社で泊まろう」
と、言われたので、盛康は、
「今夜は、宿場にお泊りなされませ」と申し上げる。頼朝は、
「わが身の将来を、神に祈り申そうと思うので、神前で通夜をしたい」
と言って、建部の神社に参詣された。
夜が更けて、下部たちが寝静まった時、守康が頼朝に小声で申した。
「都で御出家なされてはいけないよしを申しましたのは、盛康の個人的な言葉ではございません。正八幡大菩薩の御託宣でございます。その理由は、京において、不思議な霊夢の託宣がございました。あなた様は、白い浄衣に立烏帽姿で、石清水八幡宮へご参詣なさる。盛康はそのお供をしておりましたが、貴方様は神殿の中の広い板敷の大床の間におられ、盛康は神社を取り囲む垣根の傍に控えておりますと、お年のほど十二、三ばかりの天童が、弓矢を抱いて大床に立っておられました。
「義朝の弓と、矢を入れる箙(えびら)とを、召取って参りました」
と申されると、後神殿の内から気高い御声で、
「深く収めておけ。最後には頼朝にそれを与えよう。これを、まず頼朝に食わせろ」と御命令されたので、天童は御簾の際まで参って、申し出された物を腕に抱えて、貴方様の前にお置きになる。何かと見てみれば、熨斗鮑(のしあわび)が六十六本ある。先ほどの尊い声で、「頼朝、それを食べよ」
と命じられたので、あなた様はお手にそれを握って、広い所を三口お食べになります。細い所を、盛康に投げていただきました。それを懐に入れて、にこにこと喜ぶのを見まして夢が覚めました。
(写真:京都石清水八幡宮)
この夢の心中で考え合わせてみますに、御当家の弓矢を八幡大菩薩の御神殿の中に神がお納めになりました頭殿(こうのとの:義朝を差す)こそ、いったん朝敵となって亡びなさるとも、貴方様にとり将来頼もしい夢想いのお告げです。六十六本の鮑は、六十六ヶ国を掌握されるであろう吉相です。お食べ残しになったのを、私が頂戴して懐に入れたと見ましたので、人数にも入らないような私までも、頼もしい事です」
と盛康は申したけれども、頼朝は返事もせず、放心状態の様子で
「さあ盛康、鏡の宿場まで一緒に」
とおっしゃるので、盛康は愛おしさのあまり「母は何ともなるようになればいい、どこまでもお供しよう」と思った。鏡の宿場に着いて、
「どこまでもお供に参りましょう」
と言うと、頼朝は、
「それこそ、あってはいけないことだ。真心は嬉しいことながら、お前の母の嘆きは、この頼朝の身が責任を負わなければならないことになる。親孝行の気持ちを無にしてしまう事は仏神に見えぬお考えに背くことになろう。そのお考えと違うことになれば、頼朝に対する仏神の加護にどう響くか、恐ろしい」と言ってお止になった。『平治物語』(日下力訳注、現代語訳)下巻一、十「纐纈守康の夢告談」より。 ―続く
(写真:京都石清水八幡宮)