坂東武士と鎌倉幕府 二十八、頼朝の助命 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 平治の乱で敗れた源義朝は尾張野間で長田忠致親子に裏切られ殺害され、義朝の子・頼朝が伊豆に配流される。この間の頼朝助命と伊豆に配流後に伊藤祐親が京に大番役を務めるために伊豆を離れ、祐親の三女八・重姫と通じ千鶴丸を産む。それ以降は、『吾妻鏡』、『曽我物語』で記載されている。しかし、頼朝助命と伊豆国に配流されるまでの記述は『平治物語』に見て取るしかない。『平治物語』の中巻の終わりから下巻に至って、源義朝の側室・常葉(常盤御前:阿野全成、義円、源義経の母)が、京を逃れる情景と行く末、そして頼朝の助命と伊豆までの配流の様子が交互に描かれている。ここに『平治物語』が『平家物語』と同様に他の戦記物語に無い人間の情景を表した特筆すべき部分であり、秀作に値する物として成立させている。常葉の事は、また機会がある時に述べることにして、頼朝の頼朝の助命と伊豆までの配流について徐述したいと思う。

 

 平治元年十二月二十一日、三男頼朝は当時十三歳、近江で雪中、父義朝一行と離れ、平宗清によって捕らえられた。頼朝の助命は、捕えた平宗清が哀れに思い、清盛の故父忠盛の後妻である池禅尼に亡くなられた池禅尼の息子に瓜二つであったことを告げたとされる。『平治物語』(日下力訳注、現代語訳)下巻一、「頼朝の助命」では、平治の乱の勲功で伊予守とこの正月に左馬守に叙任された清盛の嫡子平重盛を招き、清盛に助命してもらうよう懇願したのである。

「兵衛佐(頼朝)という十二、三の者の首、切られてしまうのは、可哀そうです。頼朝一人だけをお助け下さいと大弐殿(清盛)にお願いしてくださいな。」

と申されたので重盛は、その旨を清盛に話された。清盛は、

「池殿がこの世におられますのを、故刑部卿殿(清盛の父忠盛)のように思い申し上げてきたから、万事、御命令に背き申すまいと考えているけれども、この事はたいそう難しい事だ。伏見権中納言師仲や越後中将成親等のような者は、何十二人許しても不都合ではないが、あの頼朝は、源氏の祖、六村王経基(武蔵権守として平将門を讒言した)の子孫として正真正銘の嫡流の子だ。名将たる父の義朝も、見るところがあったのか、官史の地位昇進も、何人もの兄を飛び越えている。戦場でも、したたかな振る舞いをしたと聞いている。遠方の国に流していいような人物とも思われない」

と言って、はっきりした返事はしなかった。

  

(写真:ウィキペディアより引用 平清盛像、重盛蔵)

 重盛は池殿にこの旨を申すと池殿が仰られるのは、

「大弐殿の力で度々の戦乱を鎮圧し、君を御守り申し上げたので、一門は繁盛し、源氏はことごとく亡びました。頼朝一人を助け置かれますとも、どれほどの事を、しでかしましょうか。前世で頼朝に助けられたのか余りにも可哀そうに思います。また、そなたに頼ってお願いするのも、使いに立つ者の人柄ゆえの希望もあろうかと思い、お頼みしました。

大弐殿は、この尼の身を分けて生まれたのではないというだけです。平家一門を育ててくださる故、大弐にも、愛おしく思い申し上げていますこと、実子の頼盛、何人に思い替えられましょうか。私のこの気持ちは、それでも、長年、御覧になって来たでしょうに。

もしかして、そなたが、私の血を引いていないと言う事で、遠ざけておられるのと、大変恨めしく」と涙ぐみなさった。重盛は、再び大弐殿に申されたのは、

「池殿の恨み、とんでもありません。女性のおろそかな心に思い立ってしまった事は、難儀この上ないのが常です。あまりに池殿の御意向に背き申されると、嘆かわしく困ったことになりましょう」

と申されたので、大弐はお聞きになり、

「大変困った事を、おっしゃられる人だ」

と言ってそれ以上特別な言葉もなかった。池殿は、この事で力を得て継孫の重盛と我が子の尾張守頼盛とを使者に立て、代る代る歎きを訴えられた。

 

 池禅尼の執拗に訴える様相が克明に記されており、それを取り告ぐ重盛の人となりが窺える。兵衛佐(頼朝)は、今日切られるだろう。明日は必ずという噂は立が、一向に処断されず、頼朝の心中には、

「源氏の氏神の八幡大菩薩は、この世におられる。命さえ助かったなら、どうして目的を遂げないでおけようか」と思ったのは恐ろしい。と記載されている。

また頼朝は、「一日でも命ある時に、父の供養のために卒塔婆(そとば)を作りたい」と願い、卒塔婆にする木もなく、刀を持つことも許されなかったので池殿に仕える下級使用人の丹波藤三頼兼(とうぞうよりかね)という者が、杉や檜で卒塔婆を作り頼朝に差し出した。頼朝は非常に喜び、数百の卒塔婆に梵字をまねて字を書き、その下に阿弥陀仏の名号を書いて束ね合わせて言った。

「子供らにもばらばらにされず、牛馬に踏みつけられないような所に、亡き父のため、この卒塔婆を置いて差し上げたい」

と言うと藤三は、立春後の厳寒の中、六原の屋敷内の万功徳院(まんくどくいん)と言う古寺の庭の池の小島に泳ぎ渡って卒塔婆を置いた。頼朝はこのように藤三が世話をしてくれるのも、

「何から何まですべて、池殿の御厚意のおかげだ」とお思いになったと記される。

 「兵衛佐(頼朝)は、父が討たれたのであれば討死し、自害でもすべきものなのに、尼公を頼って命を助かろうという。言語道断だ」と上下の身分の人たちは、皆非難したが、ある人が言うには、中国の古事で越王の勾践(こうせん)と呉王の夫差(ふさ)が合戦した際、夫差は敗れた勾践を生かした。しかし後年、勾践は呉を攻め滅ぼした。

「兵衛佐も、命さえあったならと思っているのだろう。尼でも大弐でも、考えていることがわからない。恐ろしい、恐ろしい」

と申す者もいた事であった。

 

 丁度その頃、義朝の側室の常葉は京を逃れ、出奔していたが、我が子を犠牲にしてまで捕らえられた母を救うため、京に戻った。常葉は清盛と対面したとされる。常葉は、八歳の今若、六歳乙若、二歳牛若の命を犠牲にしても母を救いたいと思い、三人の命を絶つ前に自身の命を絶って欲しいと願った。頼朝は池禅尼の申請により死罪が許され、東国の伊豆に流罪が決定した。また常葉の子等は幼い故、面倒な事もなく罪科に値しない者たちだと言う事で、死罪を免除された。頼朝の流罪は、後白河上皇や上西門院の意向もであったともいわれる。永歴元年(1160)三月十一日、頼朝、伊豆へと配流される。 ―続く