平治元年(1160)十二月九日に院政派の首謀である藤原信頼、二条天皇派の清和源氏頼光流美濃源氏源光保、清和源氏満政流美濃源氏の源重成、文徳源氏の源季実と共に平清盛が熊野詣に立った留守を狙い三条殿を襲撃し、少納言信西を誅殺した事で平治の乱は始まった。乱の根源は、信西と信頼の確執とされるが、後白河法皇が自身の勢力の拡大のために寵臣の新規昇進者と信西一族を統制出来なかった点が原因として挙げられよう。源義朝が藤原信頼と共謀し、乱を先導したのではなく、それぞれの各流派の源氏が参集した連合軍であったために、目的は信西誅殺を果たすことにより院政派と天皇派は再び分裂していった。
平清盛は、熊野詣を取り止めて即刻上洛する。洛中では平家の軍事力が圧倒し、軍事均衡は崩れた。清盛は情勢を洞察しながら内大臣の三条公教(きみのり)が、清盛に信頼打倒を説得する。信西を討った藤原経宗と維方の二条天皇派は、信頼等の後白河新政派は既に不要であった。三条公教(ただあき)は藤原経宗と維方に接触し、信頼への離反と二条天皇の六波羅行幸の策が練る。そして、信西の従兄弟、惟方の義兄弟の藤原伊明を内裏に潜入させ大変。同年十二月二十五日夜、維方が後白河院の下を訪れ、二条天皇の脱出計画を報せ即刻仁和寺に脱出させ、日付が変わった二十六日の丑の刻(午前二時頃、)二条天皇の六波羅への脱出を成功させた。そして、翌二十七日巳の刻中半(午前十時頃)、内裏郁芳門、陽明門、待賢門院で戦いは始まり、其日の夕刻前には勝敗は決した。
(写真:ウィキペディアより引用 『平治物語絵巻』に描かれた平治の乱で敗走する義朝配下、元平治合戦源義朝白河殿夜討之図 東京都立図書館 歌川芳、)
義朝は起死回生を図るために、自身の基盤である東国に向かう。途中、大叔父の義隆が首に比叡山の山法師の矢に討たれ、近江で、それぞれ分かれ東国に向かうよう下知した。三浦義澄以下東国武士は共に東国に向かう事を主張したが、義朝は分散する方が落ち延び易いと考え、上総広常は、
「人が多くては同中も難しいことになるでしょうから、東国より都へ攻めお上がりになる時、軍勢を引き連れて、私は参上する事にします」
と言っていとま乞いを申し、それぞれ思いを胸に秘め東国へと向かった。朝長も左腿に矢を討たれており、近江で雪中に三男の頼朝とはぐれ、美濃国青墓宿で休息する。その後、義平は東山道、義朝は朝長を連れ東海道に進むが朝長の傷が悪化し、朝長は足手まといになることを嫌い、義朝に自身を殺すことを依頼し念仏を唱えた。義朝は朝長の胸を太刀で三度刺し、首をはね遺骸に衣をかけ、義朝の胸中は悲しみの涙にあふれていた。
同年十二月二十九日に義朝は尾張国野間で随行していた鎌田正清の舅の長田忠致の邸に着いたが、平治二年(1160)一月三日、忠致の裏切りに会い浴場で、恩賞目的によるだまし討ちに会い、正清と共に殺される(義朝の孫、頼家もまた伊豆で北条義時の郎等に入浴中殺害)。『平治物語』「忠致心変わりの事」では、その所業に付いて語っており、正清の妻は正清の以外の横で自刀して果てたとする。
司馬遼太郎の『街道をゆく三浦半島記』で「忠致の悪質で酷薄さは『平治物語』の筆者も辟易したのか妻の自刀により倫理的平衡を取っているかのようである」と述べている。忠致はその首を京の平清盛のもとに差し出し、同年正月九日に洛中にて獄門台で晒し首となった。忠致は、恩賞として壱岐守を与えられるが不満を示し、「佐馬頭、せめて尾張国の国司になって然るべき」と申し立て清盛らの怒りをかい処罰されそうになると慌てて引き下がったと言う。そのあさましい有相も『平治物語』に終始批判的に記述されており、筑後守家定が、
「やつを六条河原で磔(はりつけ)にして、京中の上下の身分の人たちに見せたいものだ。代々仕えてきた主君と、婿を殺して、論功行賞を蒙ろうと言う事の憎らしさよ。首を斬らせなさいませ」
と、言うと平清盛は、
「もし将来源氏が世で力を得ることになるなら、忠致・景至はどんな目に遭うだろうか」
と、憎まない者はいなかったと樹される。
その後の長井忠致は義朝の嫡子・頼朝が挙兵すると、再び頼朝に出向き寛大にも「懸命に働いたならば美濃尾張を与える」と言われ、その列に加えられた。そして懸命に働き、平家が滅亡すると頼朝は「約束通り身の終わり(美濃・尾張)をくれてやる」と言われ処刑されたと伝わる。処刑場所、年、場所、処刑の様子等諸説あるが『保暦間記』には建久元年十月、頼朝上洛の際に美濃で斬首されたとされる。
(写真:ウィキペディアより引用 報恩寺は政清の母が政清の菩提を弔うため建立した寺)
義平は十八日、東山道の途中、難波経房の郎等橘俊綱に捕らえられ、二十一日、六条河原で処刑された。三男頼朝は当時十三歳、近江で雪中、父義朝一行と離れ、平宗清によって捕らえられた。頼朝の助命は捕えた平宗清が哀れに思い、清盛の父忠盛の後妻である、池の禅尼に亡くなられた池の禅尼の息子に瓜二つであったことを告げ、清盛に助命してもらうよう懇願したのである。また後白河上皇や上西門院の意向もであったともいわれる。永歴元年(1160)三月十一日、頼朝、伊豆へと配流される。
この平治の乱で清盛率いる平家は恩賞として治行国が五か国だったところ七か国に増え、全国おける最大武士集団になった。そして二条親政派が自らの権威の安定を図り実権をにぎった藤原経宗、惟方が後白河院に対する圧力を強める。正月六日、八条河原の藤原顕長(あきなが)邸に行幸し、桟敷で八条大路を見物し、下衆を呼び寄せたりされていた。それを見た経宗、惟方が妨げるため堀川にあった材木を外から打ち付け視界を遮った。この嫌がらせに激怒した後白河院は清盛に経宗、惟方の捕縛を命じ、同年二月二十日に清盛の郎等平忠景、源為長が二人を拘束した。本来貴族の拷問は免除される慣例であるが、後白河院の目の前に引き据えて拷問をかけ経宗、惟方は信西殺害の共犯者として追及されて失脚する。後白河院の二人に対する怨念の深さを感じる。
(写真:ウィキペディアより引用野間大坊の境内にある義朝の墓、野間大坊にある政清(政家)夫妻の墓
同月二十二日、信西の子息の帰京が許され、その入れ替わりの様に三月十一日、経宗が阿波に、惟方が長門に配流された。同日、源の師仲、頼朝、希義(義朝の同母弟)がそれぞれの配流先に下った。六月には信西の首を獲った源義光とこの光宗が謀反の疑いで薩摩に配流され殺害された。信西打倒に加わった者は後白河院政派、二条親政派を問わず政務から一掃されている。
(写真:ウィキペディアより引用 平清盛像、後白河法皇像)
その後、後白河院がいる中、二条天皇が政治を行った。平清盛は巧みな振舞いで、双方に仕え、平家一門は、より一層発展させる。『山槐記』に永歴二年十一月二十三日、二条天皇の後ろ盾となっていた美福門院が熊野詣に途中に薨去した。後白河院は即位以来美福門院との協調に苦悩していたが、薨去により、自身が政治的実権を握ることも可能になる。しかし、応保元年、清盛は元体制下における武士が貴族化して世を治める方法を取った。後の源頼朝は新しく武士が世を治める手段を求めた。三浦義澄、上総広常は、この平治の乱で義朝に付き従い戦ったが、無残な敗北で終わる。しかし、義澄、広常にもたらした物は経験と沈着冷静な思慮と行動、そして主従関係の在り方であったと考えるが、平家の繁栄の中、東国武士として生き残るための苦難な時期に入った。そして、後に挙兵する源頼朝が最も信頼したのが三浦一族であり、三浦義澄であった。また、上総広常が挙兵の軍勢を義朝との約束通りに行い、頼朝の本拠に鎌倉を選び、坂東武士の拠点として治承寿永の乱に突き進んでいく。 ―続く