坂東武士と鎌倉幕府 二十五、平冶の乱後の賞罰 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 平治元年(1159)十二月二十七日夜、逃亡していた藤原信頼、成親(中納言藤原家成の子)は、後白河法皇が、第六皇子が門跡である仁和寺の守覚法親王の下にいることを知り、

「昔の御ひいきの気持ちが残ってくれたなら、お助け下さるだろう」と法皇の助けを請う為に出頭する。天皇親政派であった伏見源中納言師仲、越後中将成親も仁和寺に参った。二人は上皇に

「天皇が入らっしゃいましたのでお見方に参り、大内裏に籠っただけです。大した罪は無いはずです」と軽々しく弁解を申しあげた。法皇の側近たちが、

「ならば、何故に武具を身に付け、先陣に立ち加わったのか」と問うと、二人は閉口したままであった。

 

(写真:京都仁和寺)

 上皇がこの事情を手紙に書き留めて六波羅に知らせた。翌二十八日、六原から平重盛、頼盛、経盛が大将として三百余騎が仁和寺の御所を参向し身柄を受け取って六波羅に戻った。六波羅に参上した公卿に対し平重盛が、

「今度の重盛の勲功に対する恩賞には、越後中将(藤原成親)の身柄をお願いして預かりましょう」と懸命に申したので死罪は免れ解官に留まった。重盛の正室が成親の妹・経子であった事が要因であるが『平治物語』では、そのことに触れず、成親が院のお気に入りで院御所において上下に関係なくして面倒見のある優しい人物であり、重盛が出仕した時は毎回、思いやりを示し、今度は重盛に助けられたと、「とにかく人は優しい心を持つべきだである」と記している。『愚管抄』では「ふようの若殿上人」とみなされ「フヨウ」は不要、取るに足らない殿上人と記している。二条天皇政権下では解官される。後に復位して正二位権大納言にまで昇進するが、鹿ヶ谷の陰謀事件で主犯とみなされた。ここでも重盛に「今度もあなたの命だけはお助けするようにと、父・清盛にたのんでみます」と記されて、助命されるが備前国に配流される。衣類など重盛の援助を受けるが、食事を与えられずに殺害されたとあり、『百錬抄』には安元三年(1177)七月九日に死去とある。

 

(写真:ウィキペディアより引用 二条天皇像、平繁盛像)

 村上源氏の伏見源中納言源師仲は、信頼・義朝の敗戦を見届けた後、三種の神器の一つ八咫鏡を姉小路東洞院から自邸に持ち帰った。持ち逃亡した神鏡を手土産に出頭して、

「この師仲は、(罰せられるどころか)功績に対する恩賞を頂戴して当然の身でございます。その理由としては、信頼卿が神鏡(八咫の鏡)を、もう少しで東国へお下し申そうと計画いたしましたのを、女房の坊門局の屋敷、姉小路の東洞院にお隠し置き申しましたからには、朝敵に与しなかった証拠として、何かこれ以上のものがありましょうか。信頼卿が伏見へと、こちらからお声をかけ、やってきましたのも相手の権勢に恐れて、心ならぬ交際をしたのでありました。よくよく私のいうところをお聞きになり、納得して下さいますよう」と自身の肯定した論理を申した。この論理が逆で、自身の否定的立場において、信頼と与した事の謝罪と、朝廷に背いた事による謝罪のため神鏡を守った論理を展開したならば対応は変わったかもしれない。朝廷は師仲の八咫鏡を守った功績を認めず、保身行動であったとして翌年の元暦元年(1160)三月三十一日、下野国配流と厳しい処罰を下した。しかし、仁安元年(1160)に赦され帰洛。戦前の正三位に復位し、最終官位は前権中納言従二位に就くが、散位となる。

 

乱の首謀者である藤原信頼は、『平治物語』では六波羅邸に近い鴨川に引き据えられ、重盛を介して詳しい事情を尋問されるが申し出る言葉がなく、ただ、

「天魔が勧めた事」と申し、おのれ自身の重罪を理解せず、

「命ばかりはお助け下さい」と泣く泣く申したので、重盛が

「寛大な処置をお受けになったとしても、どれほどの刑が軽くなりましょう。そのうえ、決して命が助かることは無いでしょう」と返事をすると、ただ泣くよりほかなかった。

清盛の前に引き出された。清盛は信頼の自己弁護を繰り返す醜態を見て、信西自害・三条殿襲撃の首謀者として六条河原で斬首にした。『愚管抄』では、斬首されるまで自己弁護と悪態を続け、清盛に拒絶される体たらくを見せて「ユニヨニワロク」とその態度を非難されたと記される。

 

 藤原惟・、経宗は、兄の光頼の諫言により信頼から離反を決心して監禁されていた二条天皇を平清盛の六波羅邸に脱出させた。しかし、天皇親政を進める方策として、後白河法皇が好んだ御在所である藤原顕長邸を封鎖し、 

「世をおば院に知らせまいらせじ、内の御沙汰にあるべし(院に政治の実権は渡さない、天皇が政務を執るべきだ)」と申した事で法皇は激怒した。乱後、藤原信頼と共謀して信西殺害を行った首謀者であったことは明らかであり、

「わが世にありなしは、この維方・経宗にあり。是を思うほど戒めて参らせよ」と法皇は平清盛に命じ逮捕させたと『愚管抄』に記され、惟方を長門国、経宗を安房国に流罪とした。惟方は流罪前に出家をして法名を寂信と称している。後に赦免され召喚されるが、二度と政界に戻る事は無かった。

経宗は、二条天皇が新政を確立すると都へ召喚されるが、特に目立った行動は無かった。長寛二年(1164)正月に本位に復位し、その後は平家と親密な関係を構築していく。

 

 河内守源季実と季盛親子は、官を解かれたうえ捕えられて斬首された。少納言入道信西の子息、僧侶・俗人合わせ十二人が流罪に処せられた。信頼・義朝により流罪が決定された身であり、本来、君のために命を捨てた忠臣の子として朝敵が滅んだからには流罪が解かれて、逆に恩賞を与えられるべきだが、乱後に流罪が行われた。院新政派と乱の根源となった信西に対しての対応であったと考えられる。天皇親政派の維方・経宗が流罪となった事から、帰京を許された。

 その他、罪を問われた者は信頼の弟・兵部権大輔家頼、尾張少将信説、信頼の兄・民部少輔基成、信頼の子・新侍従信親、播磨守源義朝、義朝の子中宮大夫進朝長、右兵衛佐頼朝、佐渡式部大夫重成、但馬守源有房、鎌田兵衛正家、その親類縁者七十三人の官職を解任している。

 論功行賞においては、平清盛の嫡子、左衛門さ重盛は伊予守、次男大夫判官基盛を大和守、三男宗盛を遠江守、清盛の弟の三河守頼盛を尾張守、伊藤武者景綱は伊勢守に任ぜられた。 ―続く