坂東武士と鎌倉幕府 二十四、平治の乱の終焉 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 摂津源氏の棟梁兵庫頭(源頼政)は五条河原の西側に三百余騎を待機させていた。源義平は、頼政の軍勢を見て「見苦しい兵庫守のふるまい、源家にその名を知れる者が二股をかける心があってよい物か。この義平の目の前を通すわけには行けなかない」と大声を張り上げた。白旗を差し上げた十五騎が、太刀を振り上げ喚声を上げ駆け巡るが、頼政の三百余騎に追い回される。義平は一度挑みかかるが、本来の敵ではないと義朝がいる六条河原に向かおうとした。

 頼政の郎従七八騎が追いかけ、散々に矢を射掛ける。義平の郎党・山之内首藤俊通の子・瀧口俊綱が引き留まって、追っ手に立ち向かったが、頼政郎党・下河辺行義の矢に首の骨を射られた。その矢を折り、かろうじて騎乗にて息を継いでいた。義平は鎌田正清の下人を呼び寄せ、

「瀧口は重傷を負ったと見える。敵に討たせるな。首を味方に取れと命じろ」と言い放ち、下人は俊綱の下に急いだ。俊綱は、

「他人の手に掛けるなとの仰せは、かたじけない事」と涙を流す。

「さあ早く切れ」と馬からこぼれるように落ち、切られた。そして源頼政は、官軍の六原勢に加わった。

 

 義平は父・義朝と合流し最後の戦いとなる六波羅に向けて馬を駆った。その数二十余騎が六波羅に押し寄せ、二列目の垣楯(かいだて)まで攻め寄せて行く。清盛は寝殿後方に位置する北の対屋の、西側の妻戸で、下知を行っていた。妻戸に敵の矢が雨のように降り注ぎ、激怒した清盛は「恥のある武士がいないゆえ、ここまで敵を近づけた。どけ、清盛、馬を駆ろう」と出陣する。清盛を取り囲むように多勢の徒歩(かち)武者が固め、嫡子・重盛、次男基盛、三男宗盛以下の一門三十余騎が、清盛が矢面に立てまいと、我先にと駆け行った。

重盛は六波羅の一端を支えている頼政に目をつけ「兵庫頭は新手であろう。馬を駆れ、進め」と声をかけ、頼政の三百余騎を鴨川の東岸を西に向け馬を駆った。義朝は川を渡り元の西側に引き退いた。義朝は頼政に向かって

「兵庫頭。名を源兵庫頭と呼ばれながら、ふがいなくも、何故伊勢平氏につくのか。貴殿のふた心による裏切りで、我らが家の武芸に傷の付いたのが口惜しい」

と声高く言い放つと頼政は、

「代々受け継いできた弓矢の武芸を失うまいと、十善の君の天皇におつき申し上げるのは全く裏切りにあらず。貴殿が、日本一の臆病者、頼信に同心したのこそ、当家の恥辱だ」と言えば義朝は道理が胸に響いたのか、その後の言葉は無かった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 平清盛像、以仁王像)

 六条河原で待機していた源頼政は形勢を窺っていたが必ずしも平家に付こうとも考えていなかったが、義平の行動が結果的に平家方に追いやることになってしまったという考えもある。しかし、頼政は、もともと鳥羽院に仕え寵妃の美福門院や、それらの院近臣、藤原家成に交流を持っていた大内守護(皇室警護の近衛兵等)の京武者であった。したがって、保元の乱においても美福門院、後白河天皇派に与している。頼政にとって平治の乱で二条天皇が平清盛の六波羅邸に行幸されたことで、官軍に従うことが当然であった。

 平治の乱以後、清盛からも信頼され、嫡子・中綱と二条天皇、六条天皇、高倉天皇と三代に仕えている。清盛の推挙により従三位にまでの破格の昇進を得た。しかし、治承元年(1177)、鹿ヶ谷の陰謀事件で法皇の関与が疑われ、治承三年の十一月に法皇と対立した清盛が福原から兵を率い京に乱入し政変を断行する。そして院政を停止し、法皇を幽閉する挙に出て、翌治承四年(1180)二月、高倉天皇を譲位させて、高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた安徳天皇を即位させた。この譲位により、法皇の妹・八条院暲子内親王の猶子となり皇位への望みをつないでいた後白河法皇の第三皇子・以仁王が皇位継承の望みを絶たれた。頼政はこの以仁王と組み平家政権の打倒の挙兵の令旨全国に発する。以仁王と頼政の挙兵が判明し、平家の追討を受け頼政は宇治平等院で自害、以仁王は南都興福寺に向かう途中で討たれた。

 

(写真:京都六波羅蜜寺)

 この頼政の挙兵は『平家物語』では、頼政の嫡子中綱の愛馬を巡り清盛の三男・宗盛が無理やり譲渡をせまった事が原因としているが、代々の大内守護として鳥羽院の直系である近衛天皇、二条天皇に仕えてきた頼政が系統の違う高倉天皇、安徳天皇の即位に反発したという説もあるが、以仁王と高倉天皇は後白河院の第三皇子と第七皇子で母は以仁王が藤原成子で、高倉天皇は平滋子(建春門院)で平清盛の継室時子の妹である。頼政の皇位継承が直系でないという反発は当たらない。むしろ、後白河法王の幽閉や清盛による政権主導が、代々の大内守護としての立場が大きな反発を持たせたのではないかと考える。

 

(写真:京都御所)

 義朝は頼政の軍勢三百余騎に囲まれつつあり、討ち死にを決意するが、鎌田正清により、

「ここは馬が駆ける場所ではなく、北方の大原・静原の深山に馳せ入り、後に自害なされませ。もしまた、逃げ延びられますならば、日本海の北陸道を経て東国へ下向なされば、東国八国に、誰が御家人でない者がおりましょうか。将来に世を取ろうとする大将が簡単に命をすてられることは、後世の人のそしりを受けることになるでしょう」と勇みたつ義朝の馬の手綱を持ち西に向け引いていった。楊梅(やまもも)小路を西へ、京極大路を上り落ちてゆくと平家の郎党が勝ち戦に乗じ追いかけ散々に矢を射掛けた。葦毛の馬に乗った信濃国住人で十七歳の平賀四郎源義信が取って返し名乗って敵軍勢に挑んだ。これを見て同国住人、片切景重、相模国住人山之内首藤利通、武蔵国住人斎藤実盛が同じく敵勢の中に駆け行った。片切景重、首藤利通は、数名の敵を討つが、最後には討たれた。平賀義信は、その後生き残り、源頼朝挙兵後に木曽義仲の本拠である善光寺平を制圧し、鎌倉幕府の中枢に入っている。首藤俊通は、子・瀧口俊綱と共に平治の乱で討たれ、後頼朝挙兵時には、大庭景親と共に平家に与し源頼朝挙兵において石橋山で対峙している。

 

 義朝は彼らが我が身をすて戦っている間に、はるかに逃げ延びた。義朝は、八瀬川の北端を北に向かい落ちていくところ後ろから声がかかる。降り返って見ると、逃げた信頼であった。「どうした、東国へ行くのか。同じ事なら、私を連れて落ちられよ」と言って、近寄った。義朝は、あまりにも憎らしく思い、相手をにらみ、

「是程の大臆病者が、この様な一大事を思いたったことよ」と言って持っていた鞭で信頼の頬を三度打った。乳母後の式部大夫資能(すけよし)が、

「どうしてこのように、恥をかかせなさるのか」と、咎めると義朝は怒りを込めて、

「あの男、捕まえて馬から引きずりおろし、口を引き裂け」と命じたが、鎌田正清が、

「そうするのも、時によります。敵も今にも近づいておりましょう。早く逃げ延びるのが肝心」と勧めると、義朝も確かにと思い、万事をすてて、馬を馳せさきへと進んだ。

 

 この落ちていく道中、義朝の叔父陸奥六郎義隆義隆がいた。義隆は、相模の国の毛利を治めており、毛利の冠者とも称している。義隆の馬が疲れていたため後陣を進んでいたところ、比叡山の僧兵達の襲撃を受け、顔面を矢で射られた。上総広常が、その僧兵たちと打ち合い、広常の下人が義朝に急を知らせる。義朝は、その場に駆け寄せ、義隆を討とうと寄ってきた僧兵が山に逃げようとするところ弓を引き絞り放った。矢は僧兵の腹巻鎧を射て、矢先が五六寸(一寸約三センチ)胸板を貫通させた。義朝は義隆の臥せるところに行き、

「いかがですか。毛利殿。いかが、いかが」と問うと、義隆は目を見開き、義朝の顔をただ一目見て涙を流したのを最後に亡くなった。義朝はそれに目も当てられず涙を抑え、上総広常に首を取らせる。首の主が分からないよう目鼻・顔の革を剥ぎ取り、石を首に結びつけて谷川の深い淵に入れた。子の坊門姫を見ても見苦しいくはすまいと涙を隠したが、この義隆との別れは人目もはばからず、

「八幡太郎義家殿の御子の生き残りとしては、この人ばかりいましたものを」と言い、義朝は道すがら涙を流し、郎党たちも袖を涙で濡らさない者はいなかったという。義朝は、北陸道に向かわず東海道に進んだ。 ―続く