坂東武士と鎌倉幕府 二十三、内裏での攻防 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 平治元年(1159)十二月九日、藤原信頼・源頼朝が三条殿を急襲し、信頼は後白河法皇・姉の上西門院(後白河上皇の同母姉)の身柄を確保し二条天皇の居る内裏内の一本御所に擁した。平清盛は熊野参詣のため紀伊にお『平治物語』において動揺する平清盛は「悪源太(源義平)が大軍で待ち構えているのでは都に帰るのは難しい、船を集めて四国に渡り九州の軍勢を招集して都へ攻め上り、逆臣を滅ぼして、君のお怒りを鎮め申し上げようと考えるが、皆はそれぞれ、どう思うか」とその場の侍達に言う。嫡子・重盛は「この御命令、もっともなご意見ですが、重盛の愚考では、上皇と天皇を大内裏に幽閉し申しあげましたからには、今やっきと諸国へ、天皇・上皇の命令書たる宣旨が・院宣を下している事でしょう。我々が朝敵となっては、四国や九州の軍勢も我等には従わないはず。君の御身での事と言い、六原が留守ゆえと言う、公私ともに、暫く躊躇すべきではありません。」と帰京を促した。『愚管抄』によれば清盛と一緒にいたのは基盛・宗盛と侍十五人で、重盛は同道していない。

 
 『愚管抄』は、史論であり、すべてが真実というわけではないが、『平治物語』の創作の部分を知る上で貴重な資料である。十二月十七日、京に帰洛した事で洛中の軍事平衡が崩れた。清盛は、清盛は藤原信頼に近づきつつ、密かに二条天皇を内裏から六波羅に脱出させることに成功した。そして、藤原信頼・源頼朝の追討宣が発せられる。清盛及び朝廷の公卿たちは、内裏に放火させないよう臨機応変に官軍が攻め、敵をだまし退却する事で賊軍が内裏から出て外へ進み出たところ官軍が内裏に入れ替わり入る。そして内裏を守り、朝敵を道の半ばにおびき出して誅戮(ちゅうりゃく)する作戦がとられた。戦闘状況については、『平治物語』頼らなければならないが、鎌倉中後期の十三世紀に記された戦記物語のため源氏寄りに偏り、誇張された部分や創作された部 
分も多い事を念頭に入れなければならない。

  

(写真:ウィキペディアより引用 平重盛像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)、歌川国芳画「小松内大臣重盛」 )

 平治元年(1159)十二月二十七日辰の刻(午前八時頃)、平家軍の平重盛は叔父・頼盛、経盛と共に大将として六波羅を出陣する。『平治物語』で最高潮になるこの戦いで、重盛は、鴨川の六条河原に打って出て、「今日の戦いには、たぐいなく優れぬと憶え候ふぞ。今、年号平治なり、都も平安城なり、我等も平氏なり。三事、相応して、などか戦に勝たざるべき(三つの事柄が照応している事からどうして勝たない事があろうか)」と、兵の気持ちを奮い立たせ、味方の士気を鼓舞した。賊軍は内裏での迎撃体制の陣容を固める。平頼盛は、義朝二百四騎が固める郁芳門に向かい、平経盛は光保・満元の三百騎が固める陽明門に向かい、平重盛は信頼が三百騎固める待賢門へと向かった。待賢門で重盛の千騎の軍勢が鬨の声を上げると信頼が恐れおののき、膝が震え歩く事も出来ず、馬に乗ろうとするが乗る事も出来ず、一人の侍が馬上に押し上げたところ鞍を乗り越え地面へ落ちてしまった。鼻血を出すその姿に、その場にいた侍たちが驚きあきれながらも、おかしげに見ている者もあった。義朝は、その怖気づいた姿を見て、憎らしさのあまり、「大臆病者が、この様な一大事を思い立ったことよ。尋常な事ではない。台天魔が心に入れ替わったのを知らず仲間になって汚名を余に残す事よ」と言い放ち、日華門の方へ向かったという。

 

(写真:ウィキペディアより引用 元平治合戦源義朝白河殿夜討之図 東京都立図書館 歌川芳虎、『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)源義平と平重盛)

 重盛は、千の軍勢を二手に分け、五百騎を大内裏の大宮門に待機させ、五百騎の軍勢を率い待賢門を突破し喚声を上げて馬で駆け入った。信頼は、たちまちこらえることが出来ず、重盛は大庭(建礼門の脇にあった)の楝(センダン科の植物の古名)の木まで攻め込んだ。郁芳門を固めていた義朝は、これを見て嫡子・義平に「あれは見えないか悪源太。待賢門を信頼というあの臆病者が、攻め破られたようだ。敵を追い出せ」。義平は、鎌田正清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実森・岡部忠実・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子忠家・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の手勢坂東武者十七騎を率い大庭に駆け寄せた。声を上げて名乗る義平に従って十七騎は轡(くつわ)を横一線に並び、敵勢の中に駆けこんだ。特に三浦義澄・渋谷重国・足立遠元平山季重が重盛を見つけ駆け巡る。重盛の五百余騎は、僅かの手勢に圧倒され、大宮面へ退いた。

 

(写真:京都御所 待賢門)

 平重盛、二十三歳、馬にまたがる姿や品格は、戦場の指揮ぶり、確かに平家の正しい血筋を引く、武勇に秀でた勇士であった。重盛は馬の鐙を強く踏み、馬上で立ちあがり、「相手をだまして退却せよとの天皇の命をお受けした身とはいえ、合戦はまた、その時々の状況に応ずるものだ。僅かの小勢に打ち負けて引き退いた事、わが身には、面目を失った。もう一度、敵に駆け合わせ、その後に、天皇の意向に従おう」。大宮面に待機させていた新手の五百余騎を引き連れて、再び待賢門を突破し、喚声を上げて門内に入った。義平十九歳は、重盛が駆け入ってきたのを見て、「者ども、武者は新手と思われるが、大将軍は以前の重盛だ。他の者は目をかけるな、櫨(はじ:ハゼの木)の匂いの鎧に鴾毛(つきげ)の馬は重盛だ。馬を押し並べて組み落とせ、かけ並べて討ち取れ」。重盛の郎党総勢五十余騎が重盛を真ん中において脇目もふらず戦う。義平は執拗に大声を振り上げ駆け巡り、重盛は、その声が次第に近づくと大宮の大路へさっと退き、合戦をしながら敵をおびき出した。

  

 重盛の馬が矢に射られ、堀川沿いに積まれた材木の上へ下り立つ。後を追う鎌田正清が重盛に組もうとするところ重盛の郎党の与三(よそう)景康が正清に組み入り、景康が上になり正清を取り押さえたところ義平が馳せ寄り馬から落ちて重なり景康を討ち取った。その後、義平と正清が重盛に襲い掛かろうとするところ進藤左衛門家泰が馳せ寄り、重盛を馬に乗せ逃した。家泰は散々義平と打ち合うが、義平の打った太刀が兜の鉢にあたり、転ぶが太刀をすてずに起き上がろうとした時、その場にいた正清に討たれた。与三景康の幼少の子・重康は、後に重盛に情けを掛けられ育てられる。同じ年であった嫡子・維盛に従うが、那智勝浦の浜の宮で維盛と入水した。

 上巻二十二で「源義平、平重盛を圧倒」と在りと御所の右近の橘・左近の桜の間で激戦を繰り広げ、堀河の合戦では馬を射られながらも材木の上に立ち上がって新たな馬に乗り換えるなど獅子奮迅の活躍をする。もっとも『愚管抄』によれば義朝は、すぐに内裏を出撃して六波羅に迫ったとあるので、内裏で戦闘が行われたかどうかは定かでない。また、乱当時の内裏の右近の橘・左近の桜の間の配置は実際にはこのような造りをしておらず、鎌倉時代中期以降の内裏の造りがそのまま持ち込まれており、物語を高揚させるための創作の可能性が大きいとされる。

 

(写真:京都六波羅蜜寺)

 郁芳門にいた義朝二百余騎は、この後景を見て平頼盛の千騎の軍勢に喚声を上げ立ち向かった。頼盛は、馬の足を止めることなく散手に分かれ退却する。大内裏は、堅固な城郭のため、火を点けなければ攻略し難く、信頼・義朝の軍勢を外におびき出し、官軍は六波羅に向けて引き退いた。賊軍は内裏を出て平家軍を追撃する。しかし、当初の作戦通りに平教盛の別動隊が内裏に迫るや内応者が門を開けて引き入れ、内裏は平家方に占拠されてしまった。退路を失った義朝は清盛の本拠・六波羅への総攻撃を決め,退く平家の武者を追って六条河原に押し寄せた。この時には、藤原信頼も義朝の後についていたが、六条河原に待ち受ける平家の多くの軍勢が見て、京極大路を北に上って逃げ落ちていった。―続く