私見であるが、この平治の乱における坂東武者の動員に疑問が残る。三條殿急襲は、熊野参詣で京を離れる清盛の留守中を狙って密理の少数の挙兵であった。また当初、藤原信頼は清盛との姻戚関係上が敵に回るとは考えておらず、平家の懐柔策を考えていたとされる。しかし、武者の源家の筆頭、棟梁として平家との一戦が有っておかしくなく、軍勢の招集を考慮しなければならない。そして、義朝は東国にいる義平に援軍を要請し、義平は三浦氏・上総介氏・山之内主導し等、自身や義朝の近臣の東国武士のみを率いて京に上った。
(写真:ウィキペディアより引用 元平治合戦源義朝白河殿夜討之図 東京都立図書館 歌川芳虎、『平治物語絵巻』六波羅行幸巻(東京国立博物館蔵)、国宝)
『平治物語』で十四日、信頼により論功行賞が行われた。義朝が播磨守、三男頼朝が右兵衛佐、右馬允に足立遠元が叙任しており、義平の姿は見られない。また、『平治物語』で義平が京に上った日時が明確ではなく、物語の経過から見ると十七日前後と考える。『平治物語』に義平が記されるのは「平清盛への急報」で、九日の三條殿の急襲の内容とと義平が「都より、左馬守嫡子の悪源太義平が対象として、熊野参詣路への追っ手が向かったが、摂津の国の天王寺、安倍の松原に布陣して清盛の下向を待っている」との情報を清盛に伝えている。実際は信頼が待ち受けておらず、坂東より兵を率いて京に上がってきた義平は、清盛の熊野からの帰路で討ち取ることを主張した。しかし、信頼は、清盛も自ら協力者になる事を見込み、義平の考えを退けている。実際には、追撃は行われなかった。平清盛が京に戻った事により政変から乱に移り、勝機を逸してしまった。
(写真:ウィキペディアより引用 『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)源義平と平重盛)
また、左馬守嫡子の悪源太義平と記載があり、現在では、嫡子は母の身分さにより三男頼朝が嫡子であったと考えられている。官位叙任に対しても義平は無官であったとされ、三男頼朝が従五位下の右兵衛権佐、次男朝長が従五位下中宮少進であった。源義朝は長子・義平を坂東から駆けつけさせながら、その少数の兵の動員が結果的に平治の乱の勝敗を左右している。また、『平治物語』で、平清盛の熊野参詣に赴いた十二月四日にこの好機を得て、信頼が義朝を招き寄せ決起を促して義朝が受け入れたとのきさいがあり、急な決断であったと考えられる。保元の乱は後白河天皇からの宣旨を受けた国家による公的な動員だったのに対し、今回の平治の乱は叛乱であり義朝が動員できたのは私的兵力である近臣のわずかな兵であった。しかし、どちらにせよ源義朝の戦略的な先見性の欠如が見られる。『平治物語』は『保元物語』『承久記』と同様鎌倉時代の中期の十三世紀半ばには、成立したと考えられ、鎌倉幕府の関与があったと考えられ、全て源家寄りに記載された物語であるためすべてが史実というわけではなく、史的内容には注意が必要である。しかし、戦記物語として『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』は、日本を代表する戦記物語である。
(写真:ウィキペディアより引用 二条天皇像、後白河法皇像)
平治元年(1160)十二月二十五日夜、天皇親政派の藤原惟方が後白河院の下を訪ねて、二条天皇の脱出計画を知らせると後白河院は直ちに御所から仁和寺に脱出した。翌二十六日の深夜(午前二時)、清盛の詳細な指示の下、二条天皇の近臣である連絡役の藤原尹明(これあき:蔵人所の雑用を務める。東宮の教育係であった藤原智通の子)が状況を告げ、二条天皇は厳重な警戒の中、内裏を出て、六波羅の清盛邸に移った。藤原成頼(惟方の弟)が公卿・諸大夫及び京都中に天皇の六波羅への行幸を触れ回り、公卿・諸大夫達は続々と六波羅に集結した。信頼と提携関係で結びついていた摂関家の大殿(藤原)忠通・関白基実親子も六波羅に参入する。そして、信頼・義朝の追討宣旨が出された。平清盛が一気に官軍としての体制を整え、一方、藤原信頼と源義朝は賊軍としての立場となり、両者は明確に明暗を分けることになった。
(写真:ウィキペディアより引用 平清盛像 、平繁盛像)
翌二十六日早朝、天皇、上皇の脱失を知った信頼率いる後白河院政派は激しく動揺し、義朝は二条天皇を逃した信頼を紫宸殿で「日本第一の不覚人」と罵倒したと言う。信頼は返す言葉が無かったとされる。信頼・義朝はともに武装し出陣するが、源師仲は保身のため三種の神器の一つ内侍所(神鏡)を持ち出し逃亡した。信頼、義朝の兵は先の十二月九日に三条殿を襲撃した源重成、源光基、源季実、源光保の混成軍である。義朝の軍勢は、隠密裏に行った政変であった為に少人数で軍勢であり、子息・義平、朝長、頼朝、叔父の義隆、信濃源氏の平賀義信、近江源氏の佐々木秀義等の一族、義朝の近臣の鎌田正清、後藤実基、足立遠基等の郎党であった。そして義朝の勢力基盤であった東国から義平の義理の叔父とされる三浦義澄、義朝を擁立した上総氏の嫡子広常、源氏譜第の家人・山内首藤俊通・俊綱親子、斎藤実盛、その軍勢二百余騎に過ぎなかったとされる。学習院本『平治物語』によると平清盛率いる天皇親政派は三千機以上。対する藤原頼信の軍勢は約八百騎とされ、頼信の三百騎、義朝の二百騎弱、源光保三百騎であった。
清盛は内裏が戦場になるのを防ぐため六波羅に敵を引き付けるため内裏方面に嫡男の重盛と弟の頼盛に待賢門に出陣させた。陽明門を警護していた源光基、源光保は門の守りを放棄し天皇親政派に寝返る。光保は二条親政派で信西打倒の為、信頼に協力していただけとしている。 ―続く