坂東武士と鎌倉幕府 二十七、平治の乱と武士の世 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 保元元年七月十一日に起こった保元の乱は、崇徳上皇と後白河天皇との国権を争った乱で、いずれが勝者であっても道理の通る戦であった。慈円の『愚管抄』巻第四「大治から久寿までの間はまた鳥羽法皇が白河法皇の後を継いで世を治めになったが、保元元年七月二日、鳥羽法皇がお亡くなりになった後、日本国で始まって以来の叛乱とも言うべき事件が起こって、それ以後は武者の世になってしまったのである。」と記される。京の洛中で初めて起こった叛乱として注視しなければならない。そして、武士の武力による背景が、治世を行うための権力的基盤として構築した事を慈円が挙げている。また、『平家物語』巻第一「祇園精舎」に承平の将門(平将門)、天慶の純友(藤原純友)、康和の義親(源義親)、平治の信頼(藤原信頼)を我が国の叛臣として列挙しており、平清盛の平家一門の家系を記している。「桓武天皇第五皇子、一品楚基部卿葛原親王(くずらわらしんのう:高望王または高見王の父)、九代の後胤(こういん)讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛の嫡男・清盛なり」。

 

(写真:ウィキペディアより引用 『平治物語絵巻』三条殿焼討、)『平治物語絵巻』六波羅行幸巻(東京国立博物館蔵)、国宝

 平治の乱は、保元の乱と違い、藤原信頼・源義朝等の朝廷への叛乱と、それに対し朝廷と平清盛による鎮圧する戦となった。義朝にとっては道理の無い戦となり、そして河内源氏と伊勢平氏の両武家が初めて正面から対決した構造を持った。勝者の平清盛、敗者の源義朝として『平家物語』へと繋がってゆく。

『平家物語』巻第一「鱸」において平清盛の勲功が記され、平治元年十二月に信頼卿の謀反の時、御方にて賊徒を討ちたひらげ、「勲功一つにあらず、恩賞これをもかるべしと」と記載される。平清盛の勲功を世に知らしめ、日本においての最大の軍事力と経済力により発展していくここになった。。 平治の乱以降の二条天皇の治政において太政大臣藤原伊通は『大槐秘沙(大槐秘沙)』に末代には信頼できる「武者一人は」身近にもつべきと主張しており、『平治物語』にもその記載が成されている。後代の説話集『古今著文集』においても、伊通の名と共に武の有用性を説いた一説になった。

 

 先述した承平の将門(平将門)の乱を鎮圧したのが藤原秀郷と平貞盛で貞盛は将門の従弟であり同租を持つ。康和の義親(源義親)の乱を鎮圧したのが平正盛とされ、貞盛の玄孫(やしゃご)にあたる。平治の信頼(藤原信頼)の乱を鎮圧したのが清盛で、正盛の孫、貞盛の七代後胤である、不思議な事で天慶の純友(藤原純友)の乱以外は、伊勢平氏により討伐された。平将門と平貞盛は、高望王(もしくは高見王)を祖としながら、承平の乱で貞盛が藤原秀郷と強調して、将門が敗れ勝者となった。平治の乱と承平の乱は、同様の乱と示されることがある。平将門も藤原信頼も朝廷に対し叛逆を行い、叙任を行った事は類似するが、目的とその後の形態により違いが見える。承平の乱の将門は東国武士団の独立闘争として捉えることが出来、主体が将門であり、自身が新皇として東国を治政する点である。また、平治の乱は、朝廷内の権力闘争であり、天皇の傀儡政権を作ることが目的であった。主体は信頼で、源義朝は同調したに過ぎない。

 

(写真:平清盛像、京都六波羅蜜寺)

 平家の棟梁平清盛は、最大である軍事力をもって貴族支配の社会から武士として太政大臣に就き、治承四年(1180)二月に高倉天皇に言仁親王(安徳天皇)に践祚させ外祖父として執政した。まさしく傀儡政権を樹立する。しかしこれは、武士から公卿の地位を取り入れ、従来の朝廷の政権を継続したに過ぎない。伊豆に配流になった源義朝の三男嫡子である頼朝が伊豆に配流になり、ほぼその地で二十年を過ごす。後、頼朝三十四歳にて以仁王の令旨を掲げ挙兵する。坂東武士は、再び立ち上がるが、そこには東国の武士の独立を賭けて立ちあがったのだろうか。慈円の言う「武者の世」は、もうそこまでやって来ていたのだろうか。 ―続く

 

(写真:鎌倉 鶴岡八幡宮)