坂東武士と鎌倉幕府 二十、平治の乱 信西と信頼・義朝の確執 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 信西は、久安四年(1148)に鳥羽法皇の政治顧問であった葉室顕頼が死去するとその地位に就く。官位は正五位下と低いが散位した信西には鳥羽法皇の信認と政治顧問という立場で十分であった。久寿二年(1155)近衛天皇が崩御し、候補として崇徳上皇の第一皇子で美福門院の養子である重仁親王が最有力であったが、崇徳上皇の弟・雅仁親王の長子で美福門院のもう一人の養子・守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして守仁親王の父・雅仁親王が立太子せずに二十九歳で即位することになった。この背景に信西の二人目の妻・藤原朝子が鳥羽上皇の第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母であったことから、養育した信西の策動だったと考えられる。保元元年(1156)七月二日、鳥羽法皇が崩御された。信西は、鳥羽法皇に信頼され美

 

 信西は、保元の乱での謀反人の罪状において、薬子の変以降は行われていなかった死刑を復活させ、崇徳上皇・藤原頼長方に付いた源為朝と子息、平忠正を斬首させている。そして、摂関家の弱体化と天皇親政を進めた。後白河天皇は鳥羽院政期に出来た全国に多くの荘園を継承し、荘園管理の遂行が困難になり、各地で紛争を起こしていた為に『保元新制』と呼ばれる新制を定めた。その根幹は、新立荘園や本殿以外の加納余田の停止を行う為に記録荘園券契所(荘園調査機関)を再興し、不正荘園の調査・摘発,書類不備の荘園の没収行う。これは律令制に基づく王土思想を強く盛り込まれたもので荘園整理を主たる内容とする物であった。また諸寺社の悪僧・神人の員数制限と乱交の停止、仏神事ようとの制限などの上皇からなっている。この新制により荘園公領制の成立への大きな決起になった新制であり、絶大な権力を持って遂行した。この政策を実行する際に信西は、息子を要職に就けたことで旧来の院近臣や貴族・公卿の反感を買っている。また、強引な政治の刷新に対して信西は記録書を作り、上卿に大納言三條公教卿、実務担当の三名の一人に嫡子藤原俊憲を起用した。また、成憲、脩憲は遠見・美濃の受領とし、自身は敗死した藤原頼長の所領を没収した後、院領にして、後に自身を預かりどころとしている。貴族・公卿は、信西の多くの息子の登用により、自身達が持つ既得権益が失われることに最も敏感で、より一層の反感を募らせる。

 

 守仁親王が幼少であったため、中継ぎとして美福門院の力を借り、雅仁親王(後白河天皇)が即位を成し得た信西は、保元三年(1158)八月四日『兵範記』「仏と仏の評定」で美福門院と信西は、後白河天皇が守仁親王に譲位を迫り実現する。しかし、この譲位により後白河院派内でも信西に不満が募り、信西と後白河院派の対立が始まる。この後白河天皇が守仁親王に譲位した事は、本来後白河上皇にとって院政の基盤を作るために美福門院派との協調が必要であった。しかし、信西は二条天皇が即位すると天皇の側近に自分の息子等を送り込み、天皇側側近の反感を招く。院政派、天皇派共に「反信西」の動きを生じさせるようになった。

 

 後白河上皇は自身の院政を支える近臣が信西のみであり、早期に新たな近臣を持つ必要があった。そこで武蔵守の藤原信頼を抜擢する。ここに後白河院の最も寵愛された藤原成親の妹が藤原信頼の二番目の妻であることから両者の関係が窺い取れる。成親は、平家の棟梁の清盛との関係が深く、また信頼は、河内源氏の棟梁の源義朝と関係が深かった。平家と源家の武力を手中に納めることで院政における権勢の強化を計ったと考える。信頼は保元二年(1157)三月に右近権中将、十月に蔵人頭、翌年二月に参議・皇后宮権亮、八月に権中納言、十一月に検非違使別当と二年余りの間に急速で異例な昇進をなす。『平治物語』『愚管抄』等では、後白河院との男色関係により寵愛され、寵愛によって出世する無能な男と評されているが、正三位・参議にまで上り詰めている。成親は自身の妹を平清盛の嫡男重盛の正室としており、頼信も妹を関家藤原忠通の嫡子基実と婚姻関係を結んでいた。保元の乱以降、関家藤原忠通は弟頼長の所領が没官され、各荘園で荘園管理の遂行が困難になり各地で紛争を起こしていた。後白河院の『保元新制』の新制により、その際の軍事力として義朝と関係が深い頼信との連携も必要であったと推測される。

 

 『保元新制』により、信西派、後白河院政派、二条親政派に分かれるが、信西は、子の成憲に平清盛の娘を娶り、成親は自身の妹を清盛の嫡子重盛に嫁がせており、信頼の嫡子・信親も清盛の娘を娶っていた。清盛率いる平家一門はこの時点で三者に一定の距離を置き中立的な立場を保っていた。源義朝は、『愚管抄』第五巻、信西と信頼・義朝の対立において「義朝がかねて信西を深く恨んでいた」と記されている。信西の息子に是憲(後の信濃入道)に義朝は、「「私の婿にしよう」と言ったことがある。ところが信西は「わが子は学問を治める道を進んでいる。そなたの婿などふさわしくない」と乱暴な返事をして取り合わなかったうえに、その後まもなく、当時の妻・紀二位(朝子)との間の息子で成範を清盛の婿にしたのであった。これでは義朝が深く信西を恨むようになったのも当然であろう。」ときしている。信西は息子の適材性を考えたのかもしれず、別の息子であるため義朝の恨みの根源とするのも問題がある。しかし、その対応ぶりについて問題があったと考えられ、慈円もその対応について「こういう油断を信西ほどの切れ者もしてしまう事がある。なかなか人間の力の及ばない事である。いずれにしても、物事の備わっている道理の軽重をよくよくわきまえて、それに違背しないようにふるまうことなしには、何もできないであろう。」と記し、信西のこの対応について「二つ三つの事柄が重なり合って悪いことが起こってくると、いい事も悪い事も、その時に運命は決定するのである。」と締めくくっている。

 

 藤原信頼は、自身の朝廷内での権勢を高めるうえで、実力を持つ信西は脅威であり、対立により平治の乱が始まったとされるが、『愚管抄』において、その対立の記述は無く、『平治物語』「両者の抗争」において信西が信頼の様子を見て「何さまにも、この者は天下を危ぶめ、世上をも乱さんずる人よ」と評価し、「上皇がある時、信西に信頼が大将(武官の最高なる位近衛府長官)に望みをかけたるはいかに。必ずしも重代の清華(せいぐわ:大将を経て太政大臣になれる家。摂関家より下で大臣家より上)の家にあらざれども、時によって、なさることもありけるとぞ伝へ聞く」と言われたので信西は「…国王の政治は、官位任命を第一として、間違った位・役職を与えることは人々の非難を受け世が乱れる。…」として断った。信頼はこの事を伝え聞き、不愉快になり病気と偽り出仕もせず伏見に籠り、源義朝に親好き懇意を伝えたと記している。それ以外に対立を示す資料は定かではない。対立の構図として信頼は、信西の息子俊憲、成憲らとの出世を巡る競合関係にあり、また同様に新政派の藤原惟方、院政派の藤原成親にも同様に危機感を募らせていたと考えるべきである。後白河院政派と二条親政派は激しく対立していたが、信西一門による政治主導体制に反発を持ち、両者は信西の排除と言う共通意識が一致していった。そこに平治の乱の複雑な形態を見ることが出来る。 ―続く