坂東武士と鎌倉幕府 十九、平治の乱 藤原信頼 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 保安四年(1121)頃に藤原通範(信西)が娶った最初の妻は高階重仲の娘で、信西は鳥羽上皇の寵臣・藤原家成と同世代で親しかった。その家成を介し平忠盛・清盛とも交流があったとされる。また、平清盛の死別した最初の妻が高階基章の娘で、嫡男の重盛と次男・基盛を産んでおり、信西の養父・高階俊経と高階基章の養父・為章は、はとこ同士であった。保元の乱に平清盛率いる平家方が後白河天皇側に付いたのは池禅尼が崇徳上皇の第一皇子・重仁親王の乳母であったが、崇徳邸の敗北を予測して清盛に後白河院に与するよう示唆したとされる。また、清盛と高階氏及び信西との関係が深かったことも挙げられる。

 保元の乱で、後白河天皇側が勝利したが、御福門院のもう一人の養子の守人親王(後の二条天皇)が即位されるまでの中継ぎとして譲位された後白河天皇の権勢は微弱なもので、実権は美福門院等が掌握していた。平治の乱は、後白河院政派を擁護する信西と同じ後白河院派の藤原信頼との対立から始まったとされるが、後に信西を討ち取った信頼の後白河院政派の公卿たちと美福門院派を主体とする天皇派の公卿との抗争となり、両者に付く軍事貴族等の戦闘が始まる複雑な構造を示す。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後白河法皇像、平清盛像)

 藤原信頼は、どのような人物であるか。先の保元の乱の前哨戦ともいえる、久寿二年(1155)八月十六日に武蔵国で源義朝の長子・義平が義朝の弟で伯父である義賢を襲撃し秩父義孝と共に敗死に追いやった大蔵合戦の際の武蔵守で、この合戦を黙認し義平に対し何の咎めも発しなかった人物である。要は、義朝と内々で通じ合い武蔵での自身の利権を高めた。信頼は、藤原北家中関白家の藤原忠隆の四男もしくは三男として長元六年(1133)に生まれ、信西が嘉承元年(1106)の生まれであることから二十七歳の年の差がある。藤原北家中関白家は藤原道隆を祖とし平清盛の継母の池禅尼も同系である。院近臣の父・藤原忠隆と同母妹が関白近衛基実の室で、その子・基通も関白になり、順調な昇進を果たす。隆天養元年(1144)に十二歳で叙爵され、久安二年(1446)従五位以上に昇進し、二年後土佐守、また二年後の久安六年(1150)に武蔵国と父・忠隆の知行国を歴任した。仁平元年(1151)に正五位下、翌年に右兵衛佐に任じられ、久寿二年(1159)に従四位下・武蔵守に任ぜられた。この時に源義朝の長子・義平の大蔵合戦を黙認している。そして、保元元年に起こった保元の乱に朝廷が官符を発行し国衙を通じ武蔵の武士の公式動員を得た。

 

 信頼の異母兄の基成を康冶二年(1143)に陸奥守及び鎮守府将軍として着任していた。基成は、当時陸奥平泉を中心に奥羽地方(現東北地方)一帯に勢力を持った奥州藤原氏の二代目基衡と姻戚関係を持つ。基衡の嫡子・秀衡の継室に基成の娘を嫁がせた。この婚姻は、基衡が基成の前任の陸奥守・藤原師綱が腹心の佐藤季治を打ち首にしたことなどで激しく対立しており、後任の基成と融和策を計るために取ったとも考えられるが、奥州藤原氏にとっても京の中央政界に結びつきをもたらすものであった。基成の鎮守府将軍の奥州在任は定かではないが、陸奥守は仁平三年(1153)閏十二月までであるためにその任期中での事となる。

 信頼は、武士の力に着目し、坂東武士にとって必要不可欠な馬と武具の調達を奥州との関係を持ったことで容易にさせ、武蔵守の後任として弟の信説(のぶとき)に任せ、武蔵国の国衙支配権を継続させて坂東武士の支配権を拡充させた。そして、坂東支配を進めていた源義朝への影響力強めていくことになり、武蔵での自身の権益を高める。保元の乱の前哨戦である大蔵合戦を容認し義平が罪に問われなかった事で明白であることを示す。また、当時の最大の軍事貴族であった平清盛の娘と信頼の嫡男・信親との婚姻も成立させ信頼は朝廷における実力者になっていった。私見であるが地方行政官として、また朝廷の軍務の庶務を携わる者としての信頼の先見の目に関しての着目の評価は高いと思う。しかしながらそこまでの人物であった。

 

 保元の乱後、藤原北家中関白家としての立場と、武蔵守として武蔵武士団を派兵させたことから後白河院に寵愛された。これは慈円の『愚管抄』巻五に「あさましき程の寵愛在り」と言われるほどの寵臣と記されている。また『平治物語』上巻 二、藤原信頼と藤原信西に「文に優れているわけでもなく、武に優れているわけでもなく、能力もなく、また才芸もない。ただ朝廷から受ける恩恵だけにうぬぼれて、昇進は滞ることなく、父祖は諸国の守という受領職ばかりを経て、年齢が高くなり人生の先が見えてきた後に、わずかに従三位に到達したのに、彼は、天皇に近似する武官たる近衛府の役職から、宮中の庶務を管轄する蔵人所の長官、皇后宮の役職、参議にして近衛の中将、内裏の警備に携わる兵衛府の長官、京市中の治安維持にあたる検非違使庁の長官、こうした役職をわずか二三年の間に経験して昇進を重ね、年二十七歳にして中納言等衛門府の長官を兼ねる地位にまで到達した。」と記されている。

 

 後白河法皇の寵愛による頼信の昇進は、後白河上皇との男色あったとされるが、定かではない。信頼は後白河上皇の近臣で寵愛した藤原成親の妹を妻にしていた事から、共に昇殿し行動を共にしていたと考えられる。成親は、後に『愚管抄』の第五巻「鹿谷密謀事件」にて「院の男のおぼえにて」「なのめならず御寵ありける」(成親が男として並々ならぬ法皇の寵愛を得るようになった)と記してあり、両者が男色関係にあったとしている。平治の乱では、成親の妹・経子が平清盛の正室で嫡男繁盛の正室であったため罪を許されるが、鹿谷密謀事件では、許されず備前国に配流になり『百錬抄』では、重盛に異腹の援助を受けたが、七月九日に死去したと記される。『愚管抄』には食事を与えられず殺害されたとある。また『平家物語』では、武器を並べた崖下に突き落とされ殺害されたとある。

 藤原信頼は、家系的にみても信西(藤原通憲)よりも上位であるが、『平治物語』に記されるように「文にあらず武にもあらず、能もなく、また芸も無し。ただ朝恩にのみ誇りて昇進にかかわらず」と信西の能力には遠く、及ぶ者ではなかった。そして信頼のような者には、友は友を呼ぶように無能な者が集まる事になる。 ―続く