坂東武士と鎌倉幕府 十八、平治の乱 信西(藤原通憲) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 保元の乱で源義朝は坂東武士団と主従関係を以ってまとめ、東海道・東山道の京から東に位置する武士を率いて、京で初めての戦闘に従軍させて勝利を収めた。しかし、坂東の武士との主従関係は、前九年・後三年の役を鎮定した源頼義・義家親子が構築した基盤にあった事を忘れてはいけない。また、武蔵七党の様に朝廷が官符を発行し国衙の長・武蔵守藤原信頼を通じ武士の公式動員を得たもので、坂東武士の独立性が高い事も窺われる。

 

 源義朝はその後、京での河内源氏の棟梁として確立してゆくが、朝廷を武力で支える平家と源家の繁栄に差が生じていた。平家は、平清盛が棟梁として、兄弟、子息をまとめ上げ、京六原に本拠を置き、武士数においても武力的優勢を構築していた。対する河内源氏は、一族が保元の乱で衰退したため、京での勢力の劣勢を認めざるを得なかった。また、本拠地の坂東八州は京都から遠く離れていたため、緊急時の徴兵には時間を要することになる。このような事から、義朝は、劣勢の立場からの離脱を模索して平治の乱に至ったと考える事も出来る。しかし、平治の乱は、平家と源氏との争乱という視点から、後白河上皇の近臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼との間での確執末起こった争乱である事を認識する必要があり、平治の乱での義朝と坂東武士の関係も再び見直す必要がある。

 

 信西(藤原通憲)は、大学者(儒官)の家系で祖父・藤原季綱は大学頭であった。天永三年(1112)に父・実兼が蔵人所で急死したため縁戚の院近臣・摂関家の家司で諸国を受領する経済的裕福な高階経敏の養子となる。経敏の庇護を受け、学問に励み才覚を磨いてゆく。保安二年に高階重仲(養父の経俊とはとこ)の娘を妻とする。通憲は、天治元年(1124)中宮・藤原璋子の中宮小進で、官位は従六位以下の職であり、これが官位の初見であった。同年十一月、璋子の院号遷化に伴い待賢門院蔵人に補され、璋子の子・崇徳天皇の六位蔵人も務めたが、大治二年(1127)叙爵して蔵人の任を解かれた。同年、二人目の妻・藤原朝子が鳥羽上皇の第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)乳母に選ばれている。

 

 散位となった通憲は長承二年(1133)頃から鳥羽上皇の御所の北面に伺候するようになり、当世無双の宏再博覧と称された博識を武器に院殿上人、院判官代とその地位を上昇させていく。日向守にも任命され、『法曹類林』の編纂も行っている。通憲は曾祖父・祖父の後を継承し大学寮の役職(大学頭、文章博士、式部大輔)に就き学問の家系を再興しようと志すが、高階家の養子に入った事で藤原の戸籍から離れた通憲は大学寮の役職に就く家系の資格を剥奪されていた。大学寮の職に就く事が出来なくなっており、また、才知を生かす実務官僚として院の政務を補佐する職にも、勸修寺流藤原家が踏襲していた。

 

 通憲は、この事から主家を考えていたとされ、藤原頼道の『台記』康冶二年(1143)八月五日条美「その際を以って顕官に居らず、既に持って遁世せんとす。才、世にあまり、世を、之を尊ばず。これ、天の我国を亡くすなり」と頼長が通憲に書状を送った事が記されている。そして、『台記』康冶二年(1143)八月十一日に通憲と頼長は対面し通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす、人、定めて思へらく、才の高きをもって、天、之を亡くす。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、配する事無かれ」と世の不条理を歎き、頼長は「ただ敢えて命を忘れずと」と涙したと記されている。鳥羽上皇は出家を思いとどまらせようと(康之二年(1144)に正五位以下、翌天養元年には藤原姓への復姓を許して少納言にし、さらに子息・俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが同年七月二十二日通憲の意志は固く出家して信西と名乗った。信西は出家しても俗界から離れることは無く、「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそこなわぬ ことをしぞ思ふ(出家して黒染めの衣を着ても、それは名ばかりの事で心まで染めるつもりはない)』と心境を歌に詠んでいる。久安四年(1148)に鳥羽法皇の政治顧問であった葉室顕頼が死去すると、顕頼の子息が若年だった事で、その地を奪取した。また『本朝世紀』編纂の下名を受けるなど鳥羽上皇からの信認は確固たるものとしていく。

 

 永治元年(1141)十二月七日、鳥羽法皇は藤原璋子(待賢門院)との子・崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との子、体仁親王(後の近江天皇)を即位させた。体仁親王は崇徳天皇の中宮、藤原聖子の養子で「皇太子」とされていた。しかし譲位の宣命には、崇徳天皇を「皇太弟」と記されており、天皇の父でない限り院政を行う事が出来ない。崇徳天皇は父の鳥羽上皇に対して非常な恨みを抱かれたと『愚管抄』巻第四にある。崇徳上皇はこの譲位に着いて計り知れない遺恨を抱いたとされる。翌年、得子呪咀の嫌疑をかけられた待賢門院(崇徳天皇・後白河天皇の母)は出家に追い込まれ、崇徳上皇の外戚の閑院流徳大寺家の勢力は後退した。閑院流三条家、中御門流、村上源氏の公卿たちは得子の従兄弟で鳥羽法皇の第一の寵臣藤原家斉に接近し、朝廷内は待賢門院(璋子)派と徒美福門院(得子)派に二分されていった。

 久寿二年(1155)近衛天皇が崩御し、後継天皇を決める王者義弟が開かれる。候補として崇徳上皇の第一皇子で美福門院の養子である重仁親王が最有力であったが、崇徳上皇の弟・雅仁親王の長子で美福門院のもう一人の養子・守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして守仁親王の父・雅仁親王が立太子せずに二十九歳で即位することになった。この背景に信西の二人目の妻・藤原朝子が鳥羽上皇の第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)乳母に選ばれた事が挙げられる。

 保元元年(1156)七月二日、鳥羽法皇が崩御された。『古事談』には、法皇は側近・藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないように言い残したと記され、臨終の直前に崇徳上皇が見舞いに訪れたが対面できず、上皇は憤慨し鳥羽田中殿に引き返したという。『兵範記』七月二日条によると、法皇の遺体を棺に納めたのは信西・藤原惟方・源資賢・源光康・藤原信輔・藤原信隆・高階盛章の八名だったと記され、その夜に少数の近臣により葬儀が執り行われた。

 

 同月五日に「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命を受けて検非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が招集し、京中の武士の動きを停止する措置が取られた。翌六日には、頼長の命を受け京に潜伏していた大和源氏の源親治が捕られる。法皇の初七日の七月八日には、忠実・頼長が荘園の軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(論旨)が諸国に下され、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿(摂関家当主の邸宅:藤原頼長邸)に乱入して邸宅の没官を行った。保元元年、鳥羽法皇の崩御により美福門院・忠通・信西の院近臣は政治的主導を取るための計略により過度な挑発行為を行い、武力衝突と発展させ、政変に至ったのが保元の乱である。 ―続く