坂東武士と鎌倉幕府 十七、保元の乱と坂東武士団 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『保元物語』では保元元年(1156)七月十日、崇徳方は白川北殿にて軍議が開かれ、源為義の八男・為朝は高松殿の夜襲を献策している。『愚管抄』では為義が近江に下向し宇治橋を落し坂東武士の参上を待つか、東国に下向する事を献策した。しかし、藤原頼長はこれを退け、南都の興福寺の僧・信実が率いる大衆や大和国の吉野の檜垣(ひがき)冠者の援軍を待つことで決する。また源義朝は、『保元物語』では、「十一日の寅の刻に、官軍既に御所へおしよす。折節東国より軍勢上り合て、義朝に相したがふ兵おおかりけり。」と記されており、為朝も義朝の東国の影響力が知ることが出来た。この時点で為義は東国での自身の権勢において疑問が生じたと考える。

 

 源為義が京武者として検非違使に就くが、自らの行為や一族の乱行により鳥羽院から勘当を受け辞任に追い込まれた。その後、摂関家氏長者・藤原忠実、頼長親子に臣従することになり、為義の東国へ赴いた事を記す資料は見当たらない。為義の次男・義賢を北関東に下向させ、上野国多胡を領し、武蔵国最大勢力の秩父重隆と結び娘を娶らせている。武蔵国比企郡大蔵(現埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え隣国にまで勢力を伸ばした。九寿二(1155)八月、義朝の長子で十五歳になる義平は畠山重能、秩父重弘(秩父重綱の長子)、新田氏、藤姓足利氏、三浦氏と共に、勢力を拡大させる義賢の武蔵国比企郡大蔵(現埼玉県比企郡嵐山町)大倉館を襲撃し、源義賢と義父の秩父重隆が共に敗れ敗死させた(大蔵合戦)。これは、義朝の指示と考えられる。

 

 これらのことから為義は、源頼義・義家以来の河内源氏の血を引くものとして何らかの影響力はあったと考えるが、秩父重隆は、隣接する下野の藤姓足利氏との抗争と、秩父氏継承問題で千葉重能と対立していた事で為義の次男・義賢を受け入れたと考えるのが妥当であり、また、この保元の乱で下野国から藤姓足利俊綱、同族の宇都宮氏の始祖・八田知家(後十三人の合議制の一人)が義朝側についている事から坂東の武士のほとんどは義朝に臣従していたと見られる。したがって大蔵合戦は、河内源氏の後継者問題としての保元の乱の前哨戦に当たるとされた。保元の乱においての軍議の評定での為義は、勢力的に劣る崇徳院方が洛中での戦闘は不利になる事から避け、宇治橋を落とし、東での戦いを求める策を献策した。東国からの加勢を待つことを考えたのだ。しかし、乱の戦闘の火蓋が切られると、義朝の勢力が京よりも東に多く、特に坂東の武士たちが多く臣従していたことを知った。この事で敗戦後、東国に下るのをあきらめ、義朝に投降したと考える。為義自身坂東に赴く事もなく、先祖の恩恵にすがるのみで、坂東の情勢に疎かったと言わざるを得ない。また、大蔵合戦での敗戦により、坂東での自身の権勢が家祖義家から義朝に移行したことを感じながら、東への逃亡をあきらめ義朝に降伏したのかもしれない。為義は、政治と武士の戦の裁量に欠けていた人物であったと考える。

 

 源義朝は、仁平三年(1153)下野守に就き、従五位以下の叙位を受けたとされる。保元の乱後に恩賞として右馬権頭に任じられるが、不足を申し立て左馬頭に任ぜられた。十二月二十九日に下野守叙任、保元二年の一月二十四日従五位以上に昇叙。下野守・左馬頭如元。同年十月正五位以下に昇叙。下野守・左馬頭如元に叙任。義朝は左馬守任官においても平家の平清盛の待遇に比べ見劣りするという事から大いに不満であったとされ、平清盛は播磨守、太宰大弍(従四位以下で受ける大宰府の長官名)は、叙任されている。清盛は親王と同じくらいの昇進を得て、久安二年(1146)、二十九歳で正四位下・安芸守に叙任されており、三位の公卿となる一歩手前にまで来ていた。また、清盛率いる平家は北面の武士の中で最大兵力を有し範頼が安芸守、教盛が淡路守、常盛が常陸介と四ヶ国を受領し一段と勢力を拡大する。信西は京都の治安維持において平家を厚遇し、その後、大和の所領が多い興福寺を抑えるため清盛の次男、平基盛を大和の守を任じる。さらに清盛は太宰大弐に就任して地相貿易に深く関与し多大な経済基盤を高めた。源義朝の恩賞の低さが窺える。しかし、義朝は保元の乱直前に従五位以下・下野守を受領し、もともと大きな開きがあったために、互いの官位が一つ上がり大国の受領を受けたことになるため、恩賞に対する不満を抱いていた説は妥当でないと考えられる。先例から見て平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷や前九年の役の源頼義などの謀反の鎮圧をなした武士に対する恩賞は現在の本人の官位に拘わらず「越階」「希望国の受領」「子弟・郎党に対する官位の授与」があった。そのことで「子弟・郎党に対する官位の授与」に対する恩賞がすくなかったのではないかと考え、特に長子義平の官位か叙任されていない。しかし、保元の乱に参陣していなかった事が叙任されなかった理由とも考えられる。

 

 保元の乱に参加した坂東武士は、義朝に臣従した者と、朝廷が官符を発行し国衙を通じ武士の公式動員を得たもので、恩賞は何らかの形で出たものと考えるが、その内容については定かではない。恩賞は当時、臣従した侍大将が受けて、配分され、地域の要職への推薦もなしたと考えられる。大蔵合戦で畠山重能は秩父氏の族長権を得たと考えられ、秩父氏嫡流の「武蔵国留守所総検校職」は、保元の乱後、秩父重綱の孫の河越重頼に与えられたとされる。『保元物語』「主上三條殿に行幸の事 官軍勢汰(せいそろへ)の事」に義朝に参集した武士の中で「高家に河越、師岡、秩父武者」と記載があり、河越重頼と弟の師岡重経を他の武士と区別しているのが興味深い。また、源義国・義重親子は上野国新田荘の下司となっているのも恩賞として考えられる。しかし参集した武士は、坂東の地において義朝の権勢により、臣従として自身の地位と土地を安堵・確保しなければならなかった。

 

 保元の乱で平家の清盛は棟梁として兄弟と子息を結束させ、より繫栄していく中、河内源氏の義朝は親兄弟を自ら処刑し、『愚管抄』に「親の首を切つ」と世の誹謗を受けたと記される。義朝が河内源氏の棟梁に就く中、平家と源家の差は大きく開き、義朝の心中にも焦りがあったのではないかと考える。三年半後の平治の乱にそれを窺うことが出来、保元の乱で坂東に残した義平を従軍させていたのは戦功による叙任を得るためとも考えられ、本来ならば万が一の事を考えれば、坂東を固めるために残すべきだったと考える。 ―続く