保元元年(1156)七月二日、鳥羽法皇が崩御された。『古事談』には、法皇は側近・藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないように言い残したと記され、臨終の直前に崇徳上皇が見舞いに訪れたが対面できず、上皇は憤慨し鳥羽田中殿に引き返したという。河内祥輔氏は後白河天皇も見舞いにも死後の対面も行っておらず、崇徳上皇だけを拒絶したわけではないと指摘している。『兵範記』七月二日条によると、法皇の遺体を棺に納めたのは信西・藤原惟方・源資賢・源光康・藤原信輔・藤原信隆・高階盛章の八名だったと記され、その夜に少数の近臣により葬儀が執り行われた。
(写真:ウィキペディアより引用 鳥羽上皇像、後白河法皇像)
同月五日に「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命を受けて検非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が招集し、京中の武士の動きを停止する措置が取られた。翌六日には、頼長の命を受け京に潜伏していた大和源氏の源親治が捕られる。法皇の初七日の七月八日には、忠実・頼長が荘園の軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(論旨)が諸国に下され、蔵人・高階俊成と源頼朝の随兵が東三条殿(摂関家当主の邸宅:藤原頼長邸)に乱入して邸宅の没官を行った。保元元年、鳥羽法皇の崩御により美福門院・忠通・院近習臣は政治的主導を取るための計略により過度な挑発行為を行い、武力衝突と発展させ、政変に至ったのが保元の乱である。
(写真:ウィキペディアより引用 藤原忠通像、藤原頼長像)
崇徳上皇への直接的な攻撃は無かったが、「上皇左府同心」と世間での風聞が流れていた。七月九日の夜、崇徳上皇は鳥羽田中殿を少数の側近と脱出して、洛東白河の統子親王の御所に押し入る。鳥羽に留まる事は拘束される危険性もあり脱出を試みたと考えられ、『兵範記』同日条に「上下奇と成す、親疎知らず」と記されて、重仁親王も同行しない突発的で予想外の行動であった。洛中に近い白川は、特に軍事拠点としては不向きであったが、南に平家の本拠・六原があり、北面の武士の最大兵力を持つ平家は、上皇の子息・重仁親王の乳母が清盛の継母である池禅尼であり、平家が与する事を頼ったとも考える。また、自らが治天の君になる事を宣言し、去就を明らかにしない貴族層への支持を期待したものと考える。
十日の夜、謀反人として扱われた藤原頼長は、兵を挙げて宇治から京の白川殿に入り、崇徳上皇を担ぎ上げることで、自身の挙兵の正当性を示した。崇徳上皇方の元には、藤原忠実・頼長(親子、崇徳の側近である藤原憲長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲兄弟、武士で平家弘(伊勢平氏傍流)・源為国(河内源氏頼清流)、源為義(河内源氏)、平忠正(清盛の叔父)、源範頼(摂津源氏)が集結する。上皇の従者の武士は家弘と為国だけで、為義と忠正は藤原忠実の家人で、範頼は摂関家領多田荘の荘官で藤原忠実・頼長と主従関係を持つ者であり、上皇側の武士は摂関家の私的集団に過ぎず兵力は弱小で劣勢は明白だった。後白河天皇方の美福門院、藤原忠通と信西に付いた武士は源義朝(河内源氏)、平清盛(伊勢平氏)、平信兼(国香の子貞盛は天慶の乱で常陸に多くの所領を得た。貞盛は弟繁盛の子維幹を養子にし、常陸の所領を相続させた。維幹は常陸大掾職に任ぜられ、その子孫は代々大掾職を世襲したため、職名から「大掾氏」と呼ばれるようになったとされる。)、源頼政(頼政は源頼光の系統の摂津源氏で、畿内近国に地盤を持ち中央に進出し、朝廷や摂関家に近くで活動する京武士だった。)、源義康(河内源氏義国流足利氏の祖)、源重成(清和源氏満政流美濃源氏)が集結した。崇徳上皇は、今は無き清盛の父平の忠盛が重仁親王の後見役であり、清盛が与する事に望みをつないでいたが重仁の乳母・池禅尼が崇徳側の敗北を予測して子の頼盛に清盛と共に後白河方に付くよう命じたという。
(写真:ウィキペディアより引用 元平治合戦源義朝白河殿夜討之図 東京都立図書館 歌川芳虎、平清盛像)
崇徳方は白川北殿にて軍議が開かれ、『保元物語』では源為義の八男・退け為朝は高松殿の夜襲を献策し、『愚管抄』では為義が近江に下向し宇治橋を落し坂東武士の参上を待つか、東国に下向する事を献策する。しかし、藤原頼長はこれを退け信実率いる南都の興福寺の大衆や大和国の吉野の檜垣(ひがき)冠者の援軍を待つことで決した。これに対し後白河方は崇徳上皇の動きを見て武士の動員を計り高松殿を警護した。『兵範記』七月十日条に「これ日来の風聞、既に露顕する所なり」、「軍、雲霞の如し」と軍兵が参集して高松殿が埋め尽くされた事が記されている。またこの日には、藤原忠通・基実親子も参入した。『兵範記』七月十一日条に「公卿並びに近将父さん」と在り、頼長派の内大臣徳大寺実能は軍勢出撃後に姿を現しただけで、大半の公卿達は鳥羽法皇の服喪を口実に出仕せず情勢を静観していたとされる。参集する軍勢の拡大により、源義朝は直ちに戦闘の開始を主張するが、十日の内に藤原忠通は、評定において結論を翌十一日の早朝まで逡巡(しゅんじゅん:ためらう)した。山田邦和氏は、忠通は軍事行動にはむしろ積極的であり、夜討ちにつきものの放火により法勝寺などの六勝寺が延焼した場合に貴族社会内部での反感を買う事に危惧したと考えている。
保元元年七月十一日、明け方寅の刻(午前四時頃)に忠通は、武士達に戦闘の下知を下した。義朝のその時の気持ちを『愚管抄』に記されている。「この義朝、戦いに会う事に何度にもなりますが、何時も朝廷の御威を恐れ、いかなる罪科に処せられるかと言う事がまず胸にわだかまっての心の重荷となっておりました。ところが今日は追討の宣旨をいただいて今敵に向かおうとしております。この晴れやかな心はたとえようもありません」と官軍としての初めての戦の意気込みが記されている。
『保元物語』では保元の乱で、第一陣として動いた平清盛率いる平家の軍勢が六百余騎、源義朝の軍勢三百余騎であった。『保元物語』では、「十一日の寅の刻に、官軍既に御所へおしよす。折節東国より軍勢上り合て、義朝に相したがふ兵おおかりけり。」と記され、先ず鎌田次郎正清を始め、近江国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国の武士達。そして坂東から伊豆国の狩野工藤四郎親光、同五郎正成、相模国には大庭平太景吉、同三郎景親、山之内須藤刑部丞俊通、其子瀧口俊綱、海老名の源八季定、波多野二郎延景、萩野史郎忠義、安房には安西、金鞠、沼の平太、丸の太郎、武蔵には豊島四郎、中条新五、新六、成田太郎、箱田次郎、河上三郎、別府次郎、奈良三郎、玉井四郎、長野齋藤別當實盛、同三郎實員、横山に悪次、悪五、平山に相原、兒玉の庄の太郎、同次郎。猪俣に岡部六亊彌太、村山に金子十郎家忠、山口十郎、仙波七朗、高家に河越、師岡、秩父武者、上総には介の八郎弘、下総には千葉介経胤、上野には瀬下太郎、物射五郎、岡本の介、名波太郎、下野には八田四郎、足利太郎、常陸には中宮三郎、關次郎等、三百余騎とぞ要るしたる。ここに相模の義朝の後見としての三浦氏の名が無いが、義朝の長男悪源太義平が坂東に残り三浦氏と共に固めたのではないかと考える。
後白河殿天皇は神鏡剣璽と共に高松殿の隣にある東三条殿に遷り、源頼盛が数百の兵で周りを固めた。そして、平清盛が二条通り、源義朝が大炊御門大路、源義康が近衛大路の三方面から白川北殿に打って出て保元の乱の火蓋が切られた。 ―続く