坂東武士と鎌倉幕府 十五、保元の乱 源義朝と為朝 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 保元の乱の戦闘状況は『保元物語』に頼ることになるが、軍勢に劣る崇徳上皇方は、為義の子息・頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝、為仲の・六人を引き連れて、後白河天皇方の源義朝、平清盛の軍勢と戦う。押されながらも奮戦し、一進一退の攻防が源氏双方に関しての戦況と活躍が多く詳細に記されている。

 

 『愚管抄』でも、源為義に子息・頼賢と為朝が従い奮戦が記されており、その主戦場となったのが、『保元物語』では白川北殿の門での激戦が記され、『吾妻鏡』建久二年(1191)八月一日条には、大庭景能(景義)が保元合戦のことを語り、大炊御門河原と語っており、鴨川を挟んでの両者の戦闘であったことが窺える。「勇士が意を用いるべきものは武具である。中でも縮めて用いるべきは弓矢の長さである。鎮西八郎(源為朝)は我が国無双の弓矢の達者である。しかし弓矢の寸法を考えてみると、その身の丈には過ぎたようだ。その理由は大炊御門河原で、景能が八男(為朝)の弓手(ゆんで:弓を握る左手、また左側)に遭遇すると、為朝は弓を引こうとした。景能は密かに思った。『貴客(為朝)は鎮西から来られたので、騎馬の時には多少とも自由には扱えないであろう。景能は東国でよく馬に慣れている』。そこで為朝の妻手(めて:弦を引く右手、また右側)に廻った時、(為朝は)思惑が異なり弓の下部を(馬の首を)超えさせることになり、(景能の)身に当たるはずの矢は膝に当たった。この古事を知らなかったならば、たちまち命を失ったであろう。勇士はひたすら騎馬の達者であるべきである。壮士らは耳底にとめておくように。老人の言う事だからと言って嘲弄(ちょうろう)してはいけない」。(千葉)常胤をはじめ座にあった者はみな、感心した。また(頼朝からも)感心したと仰せを受けたという。と『吾妻鏡』記される。

 

 源為朝の射た矢が景能の膝を砕き、落馬した兄景能を弟景親が助けて戻っている。乱後に相模大庭の総領を弟・景親に譲り、景親は頼朝挙兵時に平家方に就き、富士川の合戦前に捕らえられ斬首されている。大庭景能(景義)は後に源頼朝が挙兵後に鎌倉に拠点を置いた際、鶴岡八幡宮の造営の奉行を命ぜられ、創建費用を拠出したとされる。特に為朝は身長七尺(約二メートル十センチ)ほどで、弓を支える左腕が、弦の弾く右手よりも四寸(十四センチ)長く弓の名主であった。平清盛の郎党・伊勢国住人古市伊藤武者景綱とその子伊東五郎忠景(忠清)。忠直が名乗りを上げ、鏃(やじり)が七寸五分(二十二センチ)の鑿(のみ)のような矢を射り忠直の胸板を貫通させて後ろの忠景の鎧の袖に突き刺さった。その矢を忠景が持ち帰って平清盛に見せると驚愕した事が記されている。剛の者の伊賀国住人山田是行も為朝に射ち落された。

 

 源義朝の坂東武士二百騎と為朝の鎮西武士の激戦は始まった。義朝は「大将軍の勅命を蒙ってまかり向かう。一家の氏族ならば、速やかに陣を開き退散すべし」と大声を上げる。為朝は、すかさず「こちらは院宣を蒙り給いて、味方の大将軍たるその御代官として鎮西八郎為朝、一陣を受けてかためたり」と言い返す。義朝は「兄にむかいて弓を引ひかん事、冥加(みょうが:神仏の加護)なきにあらんや。かつ宣旨の御使いなり。禮義(ぎれい:人としての作法)を存ぜば、弓を伏せて降参つかわれ」と言うと為朝は「兄に向かいて、弓を引かんが、冥加無き事は理(ことわり)なり、正しく院宣を蒙った父(為義)に向けて、弓引き給ふはいかに」と申されると義朝は道理である事に、その後は音もたてず立ち留まった。武蔵、・模の武士為朝勢が討ってかかり、暫く為朝は支え防いだが多勢のため門の中に引く。為朝は義朝の姿を見つけて矢を射ようとするが弓箭取(弓矢使い)の謀(はかりごと・として「汝は内の見方に参れ、我は院方へ参る。汝負ければ助ける。我が負ければ汝に助けをたのむ」と父子で約束したかもしれずと弦に差ししたる矢を差しはずし、思い留めた。為朝は、武蔵・相模の武士に矢を射り、その矢に当たる者は助かるものは無かった。名乗り出る者ならば容赦なく矢を射たが、その他は罪作りと思い配下に任せた。

 

(写真:ウィキペディアより引用 源義朝と為朝像)

 坂東武者の習いに大将軍の前には、親死に子討たれるけれどもかえりみず、いやが上に死に重なってたたかうときく決死の状況であった。近接の戦闘に不利を思う為朝は、義朝に矢を放ち威嚇した。矢は義朝の冑の星を射削る。義朝は「汝は聞き及ぶにも似ず、むげにてこそあらけり(聞き及んでいたが、やはり乱暴な奴だ)」と言うと、為朝は「兄にてわたらせ給う上、存ずる旨有りてかうは仕(つかまつ)たれ共、まことに御ゆるしを蒙らば二の矢を仕らん(どこぞなりとも二の矢を当ててみます)」と言うと、既に箭取(やとり)につがはれ、上野国住人深巣清国がとっさに義朝との間に入り、為朝は、これを弓手(ゆんで)に相受けて、射とめた。ためらうことなく相模の住人大庭景義・景親が上げ真っ先に進み出て名乗りを上げた。為朝は鏑を含む十五束(通常の矢は十二束二伏:束は拳、伏は指の太さ)ある鏑矢を射て景義の膝を砕いた。弟景親が落馬した兄が敵に首を取られることを恐れて兄を肩に引っ掛け四五長(約四五百メートル)退いた。武蔵十人豊島四郎、相模の須藤九朗も太腿を射られ、安房の住人丸太郎と鬼田與三は脇立てを射られ、武蔵国住人十郎家忠十九歳は、高間四郎兄弟に討ち取られている。為朝が鎮西から率いた二十八騎の内二十三騎が討ち取られ、坂東武士も五十三騎が討たれた。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後白河院と平清盛)

 他の門においても激戦が繰り広げられ、攻めあぐねていた天皇方は、源頼政、重成、延兼を新手の軍勢として投入し、義朝の検索により白川北殿の西隣藤原家斉邸に火を放つ。辰の刻(午前八時頃)火が風にあおられ白川北殿に燃え移り崇徳上皇方は大混乱に陥り、総崩れとなった。崇徳上皇や頼長は御所を脱出し行方をくらます。為義、頼賢、為朝ら武士等も落ちて行った。天皇方は残敵総統のために法勝寺を捜索するとともに為義の円覚寺の住居を焼き払う。後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御され、丑の刻(午後零時頃)には義朝、清盛、義朝も帰参して乱の戦闘は終結した。頼長の敗北を知らされた忠実は、宇治から南都(奈良)へ逃亡する。―続く