坂東武士と鎌倉幕府 十三、摂関家継承問題と朝廷 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 永治元年(1141)十二月七日、鳥羽法皇は藤原璋子(待賢門院)との子崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との子、体仁親王(後の近江天皇)を即位させた。体仁親王は崇徳天皇の中宮、藤原聖子の養子で「皇太子」とされていた。しかし譲位の宣命には、崇徳天皇を「皇太弟」と記されており、天皇の父でない限り院政を行う事が出来ない。崇徳天皇は父の鳥羽上皇に対して非常な恨みを抱かれたと『愚管抄』巻第四にある。崇徳上皇はこの譲位に着いて計り知れない遺恨を抱いた。翌年、得子呪咀の嫌疑をかけられた待賢門院(崇徳天皇・後白河天皇の母)は出家に追い込まれ、崇徳上皇の外戚の閑院流徳大寺家の勢力は後退した。閑院流三条家、中御門流、村上源氏の公卿たちは得子の従兄弟で鳥羽法皇の第一の寵臣藤原家斉に接近し、朝廷内は待賢門院(璋子)派と徒美福門院(得子)派に二分された。

 

(写真:ウィキペディアより引用 鳥羽天皇像、美福門院像 安楽寿院蔵)

 藤原忠通には子が無く、天治二年(1125)に弟・頼長を養子としていた。父忠実は、忠通よりも弟・頼長を寵愛し、康冶二年(1143)に忠通に実子・基実が生まれ、藤原忠実・弟頼長と忠実の長子・関白藤原忠通との摂関家継承問題により対立が始まりっていた。久安三年(1147)に朝廷内で待賢門院(璋子)派と徒美福門院(得子)派に二分されたため、左右両大臣が不在となり、内大臣の頼長が一上(いちのかみ:筆頭の公卿を意味する一ノ上卿)に就き朝廷政務を掌握する。摂政(関白)の忠通を圧倒して久安五年(1149)に左大臣に就く。そして、九安六年(1150)正月四日、近江天皇は元服の式後同月十日に頼長の養女・多子が入内し、十九日には女御とした。しかし、二月に入ると忠通は美福門院の従兄弟・藤原伊通の娘・呈子(美福門院の養女又は猶子)を養女に迎え、『台記』二月十二日条には、鳥羽法皇に「摂関家以外の者の娘は立后(皇后に就く事)できない」と奏上したとあり、忠通は美福門院との連携により摂関地位の自系統保持を計ったと考えられる。鳥羽法皇は多子を皇后に、呈子を中宮にする曖昧な妥協案を示した。これらの問題に対し、父忠実は忠通に対し、摂政燭を頼長に譲るよう求めたが忠通が拒否したため同年九月に忠実は東三条殿(摂関家当主の邸)や宝物朱器台盤を接収し氏長者の地位を剥奪して頼長に与えて忠通を義絶した。

 藤原頼長について忠通の子・慈円(頼長の甥にあたる)の『愚管抄』には、かつて忠通に子息として養育された恩を忘れず、宮中では忠通と出会った際に丁重に答礼を尽くすことで関係改善の糸口を計ったと記され、また「日本一の大学生(だいがくしょう:学者)、和漢の際に富む」と学識の高さを称賛している。頼長は「悪左府」の苛烈で他人に激しい性格としての異名が有名であるが、現代の「悪」の意味とは異なり性質、能力、行動などが型破りであった事から畏怖した用言でもあった。『台記』には頼長が男色を好んだ数多くの出来事が記載され、両性愛者だったと考えられる。また少年の頃の飼い猫が病気になった際、千手増を描いて祈念し治した事で十歳まで生きた。そして死んだときには包み櫃(ひつぎ)に入れて葬った事などの記述がある。

 

 仁平元年(1151)に忠実の追力で頼長は内覧の宣旨を受け、関白と内乱が並立する異常事態となった。忠通は鳥羽法皇と良好な関係にあったが忠通も美福門院の信認を受けており、鳥羽法皇は忠実と忠通の和解を望み、両者の肩入れを避けていたが、それ以上に忠実と忠通の関係は修復不可能な状況に至っていた。頼長が執政の座に就き、学術の最高と弛緩した政治の刷新を目指した。律令と儒教の理念を重視し、慣例を無視する政治は周囲には受け入れられず中・下級貴族から反発を招き孤立してしまい、近江天皇まで頼長をあからさまに嫌うようになった。『右槐記抄』仁平二年(1152)十月一日条には近江天皇の方違行幸において輿から降りる際、天皇の裾を頼長がとろうとしたところ天皇が拒絶し自ら裾をとって降りた。頼長は「自分を憎んでいるためであり、関白(忠通)の讒言によるものだろうと記している。

 久寿二年(1155)近江天皇が十七歳で崩御した。次の天皇に鳥羽上皇は、八条院内親王(暲子)、新院の一宮(重仁親王)と美福門院のもう一人の養子幼少の四宮御子(守仁親王:後の二条天皇)を法性寺殿藤原忠通に相談された。忠通は、二十九歳の四宮親王(雅仁親王:後白河天皇)がおられることから、とりあえず位に付ける事を薦め、皇位継承は後々に考える事を伝えた。雅仁親王は遊芸を好み評判が悪く鳥羽院が皇位に付ける器ではないと考え東宮につけていなかった。しかし、守仁親王が年少で、在命する父の雅仁親王を超えての即位を問題とする声が上がり、雅仁親王が守仁親王の皇位継承までの間、即位する事となった。これは雅仁親王の乳母の夫が信西で、忠通と信西の計略があったと考えられる。雅仁親王は降ってわいたような話であるが、忠通と信西、美福門院の後ろ盾により徐々に権勢を強めることになる。

 

 頼長はこの間妻の死で喪に服していたため出仕できず、近江天皇の死は忠実・頼長が呪咀したとのうわさが流れ出仕が停止状態になった。藤原忠実は頼長を謹慎させ高陽院を通じ鳥羽院の信頼を取り戻そうとするが、同年十二月に高陽院が死去した事でその望みは断たれる。鳥羽法皇は保元元年(1156)七月二日に崩御した。鳥羽法皇の崩御により事態は急変した。摂関家の家司・平信範の日記、『兵範記』同月五日条、に「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、京中の武士の動きを停止させる措置が取られた。法皇の初七日の七月八日には、忠実・頼長が荘園の軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(論旨)が諸国に下され、蔵人・高階俊成と源頼朝の随兵が東三条殿(摂関家当主の邸宅:藤原頼長邸)に乱入して謀叛人に対する財産没収のであるところの邸宅の没管を行った。これにより、氏長者の頼長が前代未聞の謀叛人とされたことを意味する。『兵範記』七月八日条に「子細筆端に尽くし難し」と平の信範は憤慨の念を記している。

 この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした記録は無く、後白河天皇を擁する信西、藤原忠通、美福門院の計略