坂東武士と鎌倉幕府 十二、源義朝の叙任 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 源義朝の長子・義平は、義朝十九歳の永治元年(1141)に生まれ、尊卑分脈では橋本(京都八幡市橋本)の遊女、また清和源氏系図には三浦義明の娘とされ、遊女とは現代の言葉の意味と少し違いう。この当時、遊女とは「客を遊ばせる女」という意味をなし、芸能に従事する女性を一般的に示した言葉であった。各街道の宿の長者の娘などもその職に就いたと見られる。また、遊女の中に娼婦を生業としていた者もあった。義平は通称、鎌倉悪源太と称し、この悪は、「悪事」、「悪徳」、「悪行」ではなく、当時の悪とは、「強い」、「猛々しい」という意味で用いられている。源家に伝わる武勇に優れて、『鎌倉の剛勇な源氏の長男』という意味であった。官職は左衛門慰についており、位階は定かではないが左衛門慰は六位相当とされる。また、『鎌倉の剛勇な源氏の長男』から、三浦義継の孫娘が母とする説もあるが、鎌倉に館を居する義朝の子であるため、定かではない。

 

(写真:石清水八幡宮)

 次子・朝長は康冶二年(1143)の生まれで、母は波多野義通の妹とされる。『山槐記』によると保元四年(1159)二月、鳥羽天皇皇女内親王(後の高松院)が二条天皇の中宮として立后した際、その中宮小進に任じられ、その時には従五位以下を得ていたと記録されている。兄・義平の官位を上回っており、義平が鎌倉に残り、朝長は父・義朝と京に帯同していたのではないかとも考えられる。

 久安三年(1147)に義朝二十七歳にて、正室で熱田神大宮司藤原範季の娘由良御前との間に三男・頼朝を設ける。頼朝は、兄・義平、朝長よりも母の家柄が高かったため、先に任官していた兄・朝長と同様に官位官職を受けるが、その昇進が早かったことと、義平、朝長の母よりも母の出自が高かったため義朝の後継者・嫡男として扱われていたと考えられる。また同母弟として、平治の乱後に土佐に流された希義(まれよし:土佐の冠者)がいたが、頼朝挙兵に際し希義が頼朝に合力する嫌疑を受け、平重盛の家人・蓮池家綱、平田俊遠により殺害された。

 

 久安六年(1150)には、池田宿(静岡県磐田市)の遊女が六男・範頼を産んでいる。遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ:蒲殿)と呼ばれた。平治の乱後には、当時従五位以下の藤原範季が引き取り養育をする。後に範季は後後白河法皇の近臣として順徳天皇の外祖父になり、従二位、式部権少輔に就いた。範頼は、富士の巻狩りで起こった曽我兄弟の仇討後、頼朝に謀反の嫌疑をかけられ、『吾妻鏡』建久四年八月十七日、「三河の守範頼朝臣が伊豆に下向された。狩野介宗茂・宇佐美三郎祐茂が(身柄)を預かり守護した。帰参の時期は定められず、全く配流のようであった。」と記される。伊豆国修善寺の信功院に幽閉されたとされ、『吾妻鏡』では、その後の範頼の記事は最後で、鎌倉後期から南北朝期に記された『保暦間日記』『北条九代記』等に誅殺されたとある。実際の死去した日時や死因等について確実たる物ではなく、子孫は後にも後家人として残っているため、範頼の処分があったと考えるが、誅殺されたことについては定かではない。

 

(写真:京都御所)

 源義朝の子息の生誕地を見ると坂東から京までの街道に生まれており、この事から元服後の十八歳くらいから保元までの間、京と坂東を結ぶ東海道を行き来していた事が窺われる。前回既述したように、東国は長男・義平に任せ、京へ戻った義朝は頼朝を生んだ正妻由良御前の父・熱田大宮司藤原季範が鳥羽院の近臣であったため季範を後ろ盾に鳥羽院や藤原忠通に接近し、仁平三年(1153)三十一歳で従五位、下野守に叙任された。河内源氏の受領就任は祖父源義親以来五十年ぶりで、検非違使に過ぎなかった父・為義の立場を超越することになった。また義朝は翌仁平四年、右馬助を兼ねている。この急激な昇進は義父・季範が自身の勢力の維持と強化する上での東国武士団を率いる義朝を活用する事と鳥羽院の院領支配に対する武力勢力の必要性があったためから結びついた。

  

(写真:京都御所)

 義朝の父・為義は保延二年(1136)に、自身の失態と蛮行により院の信認を失い、左衛門少尉を辞任し、事態の打開の為に摂関家に近づいていた。『台記』康冶元年(1142)八月三日条、興福寺の悪僧十五名が奥州に配流になっている。これは摂関家の大殿・藤忠実の意向で、権上座・信実も寺務を統括させるための反信実派への粛清であり、為義は忠実の命を受け悪僧捕縛、連行した。これ以降、為義は摂関家の下で藤原忠実・頼長親子の警護、摂関家家人の統制、摂関家領荘園の管理などの摂関家の家政警察権を行使する役割を担う、主従関係を持つ。

『本朝世紀』康冶二年(1143)六月十三日条に、藤原忠実の家人、源頼盛(清和源氏頼平流、源忠光の子。忠国から諱を頼盛と称す)と源惟正(出自未詳)が些細な事から口論となり山城国「宇治又子墓」付近で陣を張り、合戦の構えを見せた。藤原忠実は為義に捕縛の命を出し、頼盛、惟正両者とその郎党を捕らえ拘禁する。同七月二十五日条に頼盛は、軍兵を起こし合戦を企てた罪で佐渡国への配流が言い渡された(源惟正の処罰は不明)。

 

(写真:京都宇治平等院、宇治橋)

 『中外抄』には康冶二年(1143)、為義は藤原頼長にも臣従し、次男・義賢も能登国にある頼長領荘園の預かりとなった。為義の奉仕に対して藤原忠実は「天下の固めであり受領になる資格がある」と高く評価している。

『本朝世紀』久安二年(1146)正月二十三日、二十六日条、為義は十年ぶりに還任して、当時では異例の左衛門大尉となり検非違使の復帰を果たした。この年位に為義の長子・義朝が上洛したとされる。

 

(写真:比叡山延暦寺)

 久安三年(1147)六月十五日、祇園社の神人と平清盛の郎党が小競り合いを起こし、宝殿に矢が当たり多数の死者が出た。延暦寺は平忠盛、清盛親子の配流を求め強訴に出た祇園討乱事件では院の命令で為義は強訴防御に出動した。れらの背景から為義は、藤原忠実・弟頼長の摂関家を後ろ盾にし、義朝は院の後ろ盾となった事からも、河内源氏の方向性が見られない。また、為義が廃嫡した次男・義賢を下向させ北関東に勢力を伸ばすと、義朝は長男義平に大蔵合戦にて義賢を討たせた。この大蔵合戦に対し武蔵守であった院近臣の藤原信頼が黙認したために何ら問題視されなかった。摂関家に属した為義への抑圧が在ったとも考えられる。これらのことから義朝・父為義の関係は修復不可能な状態になったと考えられる。

 康冶二年に藤原忠実・弟頼長と忠実の長子・関白藤原忠通との摂関家継承問題により対立が始まり、皇位継承問題にまで広がる。これが保元の乱の要因となった。 ―続く