坂東武士と鎌倉幕府 九、平常重と相馬御厨 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 長元の乱で赦免された忠常の子・常長は再び勢力を拡大させた。常長・常兼親子は前九年・後三年の役で従軍し功を立て大きく発展する。平常長の多くの子により房総平氏の諸氏が形成された。次男・常兼は、常兼は、千葉氏初代家祖とされ、五男・常晴が上総氏の祖、七男常等は安西氏の祖となる。常長は上総国山辺郡大椎(現千葉市緑区大椎町)に館を築き本拠とした。常兼の代に入り下総国への進出が始まったとされる。常兼は上総権介か下総介、もしくはその両方に任じられ大椎権介と呼ばれ、後には千葉大夫と称された。

 

 常兼の子・常重は長子でありながら惣領ではなく、ここで房総平氏は千葉氏と上総氏の二流に分かれた。そして常重は、下総国千葉郡千葉郷(現:千葉市中央区亥花付近)を拠点に下総権介となり千葉介を名乗った。それ以降千葉氏の惣領は千葉介を名乗ることとなる。房総平氏は千葉氏と上総氏の二流に分かれた理由として、千葉氏と上総氏の間に所領争いがあったとされるが、定かではなく、後の常晴と常澄との関係と考えられる。長男・常家は、源義家の後三年の役に父・常長と供に従軍し功を立て、常長死後に長子・上総(佐賀)常家(上総氏では初代当主としている)が継ぎ、房総平氏代々の地である下総相馬郡では相馬五郎と称していた。常家には実子常澄がいたのも拘わらず養子を取る。理由は定かではないが、常家と子・常澄との折り合いがよくなかったとされ、常家の弟・千葉常兼(千葉氏の祖)の三男・常重を養子とした。天治元年(1124)に家督を継がせ、房総平氏惣領の座も得て上総権介の地位を継承させている。常家はその後亡くなっているが、没年月は定かではない。大治元年(1126)に常重の父・常兼が死去した事で同国千葉郡を継承し両群を支配した。この継承問題が房総平氏間での抗争の起因となっている。

 

 常重は、千葉郡の中心地域を鳥羽法皇に寄進しいてその地が千葉荘となり、下総権介を拝した。この寄進により抗争を抑えるため立場を固めたと考えられる。後に千葉荘は八条院に編入されて嫡子常重は、その荘官となっている。荘園制度が拡充していくと、所領の安堵と徴税の軽減とから武士たちが開墾した土地を貴族や寺社の領家に対し寄進し、その地の管理者である荘官となる寄進型荘園が拡大していく。地方豪族の武士は、他の豪族武士団からの抗争は免れるが、荘園領主との関係が悪化すると紛争による解決を用いることが出来なかった。また、大治五年に相馬郡布施郷を伊勢神宮内宮に寄進し相馬御厨を成立させる。自身が御厨下司ととなり地主として加地子・加司職を取る権利を承認させた。

 

 保元元年(1135)、千葉常胤十六歳の時に父常重から相馬御厨下司職を譲られる。しかし翌年延保二年七月十五日、下総守・藤原親通は、常重を相馬郡の公田官物未納の冤罪を受け、逮捕監禁されて官物の代わりに親通に相馬郷・立花郷を進呈するとの内容の証文を責め取られ強奪された。平常重に房総平氏惣領の座と上総権介の地位を譲った上総の平常澄は、当時、坂東に赴いていた源義朝を養君として扱っており、義朝の忠臣とされる三浦義明の娘と常澄の末子・金田頼次の縁組をおこなう。義朝との基盤を固めていたと考えられ、義明の子・三浦義澄の烏帽子親がこの常澄で澄の一字を諱といている。常澄にも子が多く上総氏内部でも抗争が起きている。そして、常澄の八男が上総常広であった。もともと三浦は桓武平氏良文流で、上総氏も平良文の子・忠頼と良文の甥・平将門の娘が房総平氏の祖・平忠常を生んでいるため、元をただせば桓武平氏高望流を祖とする。

 

 平常澄はこれを好機ととらえ、坂東に赴いていた源義朝を上総に迎え「上総御曹司」として養育したとされるが、実際はこの頃、二十歳くらいであった。義朝も房総での自己勢力を拡張する機会ととらえ常重から布施郷を奪取している。そして義朝は、千葉氏の同族の平常澄と藤原親通と平常重の所領問題に介入した。義朝は康治二年(1143)、常重から相馬郡の御厨の利権書類を責めとり、天養二年(1145)三月、伊勢神宮に寄進する避文(自己の権利もしくは主張を放棄する文)を提出する。しかし、圧状(強制的に作成された文書)とみなされ拒否される。常胤は再度「親父常重契状」の通り伊勢神宮に供祭料を納め、相馬御厨の加地子・下司職を常胤の子孫に相伝される事の新券を伊勢神宮に奉じ承認させた。義朝が相馬御厨の荘官を求めたのか、また、荒っぽい手段であるが義朝は常重、常胤親子と伊勢神宮との調停役を買って出たものか定かではないが、常重の嫡男・常胤は保元の乱で義朝に従っており、上総広常は保元の乱義朝に従い、平氏の乱では義朝の長子・義平に従っている。また、頼朝挙兵時には石橋山で敗れた頼朝に房総での再起を促したことなどから荒っぽい手段による調停役とも考える。

 

 司馬遼太郎の「街道を行く 三浦半島記」で「義朝は、政治力は無かったが篤実であった」と記しており、東国武士団にそれを物語っている。また、数度の紛争にも介入し、主従関係を結ぶことにより相馬群司を与えた。保元の乱では常胤は義朝の郎党とし参加する。しかし平治の乱で義朝が敗れると、下総守・藤原親通から御厨の権利を継承したとする常陸国佐竹義宗により相馬御厨の支配権を失ってしまう。その後、千葉氏と佐竹氏の抗争が続く事になった。 ―続く