源為義は、源義忠暗殺事件後に暗殺の嫌疑をかけられた大伯父の源義綱(源義家の同母弟)を美濃源氏の源光国と共に追討氏に任ぜられ、義綱を捕縛し京に凱旋している。為義はその功で、十四歳で左衛門少尉の除目を受けた。『尊卑分脈』の記載の傍注に父義親が西国で乱交を起こしたため、祖父・源義家が三男義忠を継嗣に定め、同時に孫の為義を次代の嫡子に命じたと記され、源義親の四男とされるのが通説である。
(写真:京都御所)
佐々木紀一氏は、『山形県立米沢女子短期大学紀要』45、2009年「源忠義の暗殺と源義光」で『尊卑分脈』の成立前の中世系図である北酒出本『源氏系図』、長楽寺本『源氏系図』、妙本寺『源家系図』、『佐竹家系譜』や藤原忠実の日記『殿暦』天仁二年二月十七日条に「義家朝臣四郎為義」との記述があり、為義が義家の四男とする説を提唱されている。しかし、川合康「鎌倉幕府の草創神話」において『台記』康治元年八月三日条の記述も為義を義家の実子と判断する根拠になるとしている。源義家が長暦三年(1039)の生まれとされ、嘉永元年(1106)七月四日に六十七歳で没した。為義は『尊卑分脈』の記述から十四歳で左衛門少尉の除目を受けていることから永長元年(1096)の生まれと推測される。義家の子であるならば義家が五十七歳の時の子であり、可能性は無くは無いが、疑問が生じる。為義は義親の子・義信、義俊、義泰の次の四男である事や、義親の子であるならば、年齢的に問題は少ない。私見であるが、義家は長男・義親が西国で乱交を起こした為に、謀叛人の子・為義をそのまま継嗣、または嫡子に命ずれば、朝廷及び同族間での問題を惹起させ、河内源氏の衰退は、一層加速するのではないかと考え、自身の四男として扱ったのではないかと推測する。
当初の為義は院との関係も深く『愚管抄』巻四「天皇・貴族に奉仕する武士」に「…(後白河上皇は)すでに御出家の身であったので鳥羽天皇を位に押し付けて、内裏の中の近衛の詰め所に太上天皇の御座所をおとりになり、そこで世を治めになったのである。また、源光信・為義。保清という三人の検非違使に朝夕の内裏の宿直を務めさせられたという」。即位したばかりの鳥羽天皇を警護させたのである。また、永久元年(1113)の永久の強訴や保安四年(1123)の延暦寺の強訴では、平忠盛と並び防御に動員され、院の守護する武力集団として認識された。この間に為義は白河院近臣の藤原忠清の娘を妻に娶り、保安四年に長男・義朝が生まれており、保安五年(1124)検非違使に任じられる。
源義家が烏帽子親となった伊勢平氏の平忠盛は為義と同年の生まれで、任官もほぼ同じ時期であった。忠盛は受領を歴任したのに対し、為義は、その後は検非違使のまま長く留め置かれている。その原因は為義本人と子息、郎党の相次ぐ狼藉行為であった。
藤原宗忠が寛治元年(1087)から保延四年(1138)までに書いた日記「中御門右大臣日記」、略して『中右期』や源師時の『長秋記』等にそれらが記述されている。
福寺大衆を率い
『中右記』永久二年(1114)五月十三日条、源行遠の郎党を殺害した犯人を匿う。
同年五月十六日条、尊勝寺信濃荘の年貢強奪事件で源光国が犯人を捕らえて押収物を検非違使庁の源重時に引き渡すが、重時の郎党・公正がその多くを奪い逃走した。為義はその公正を匿い、検非違使庁の採算の督促を無視する。
同年八月三日条、九条太政大臣・藤原信長の後家が、下野国の家領を管理する為義郎党の追却(犯罪者の刑罰として追放)を訴えられた。
同年八月十六日条、国衙領の贈物を押し取ったとして、上野国司が為義郎党の家綱を検非違使庁に告発。為義は自身の郎党でないと主張し、伯父の源義国と争論に及ぶ。
大治四年(1129)正月七日条、殺人を起こした美濃源氏・源光国の郎党が 赦免された際に奪い取って自らの郎党にしようと画策し光信と合戦寸前になる。
(写真:奈良興福寺)
『長秋記』同年十一月十七日条、興福寺衆徒による円派の仏師長円暴行事件で、犯人追補のため南都(奈良)に派遣されるが、逆に首謀者の悪僧・信実を匿って鳥羽上皇から勘当された。信実は大和源氏・源頼安の子で興福寺権寺主、寺主、上座を歴任し、別当・覚晴の死後寺務を掌握した。「日本一悪僧武勇」と称され、大和国同族の源親治と抗争。天養二(1145)には福寺大衆を率い、奈良の大峰山系の吉野から山上ヶ岳の連峰である金峰山襲撃する等、興福寺の中で武装化を強め矢中心的人物であった。藤原忠実・頼長親子との関係が深く保元の乱では崇徳上皇側に加勢している。
長承二年(1133)九月十五日条、為義の郎党が丹波国に赴き多くの人々を殺害した。
『中右記』保延元年(1135)四月八日条、平忠盛と共に西海の海賊追討の候補に挙がるが、鳥羽上皇が「為義を遣わさば、路地の国々自から滅亡か」と強く反対した。為義の郎党が追討の名を借りた略奪行為の懸念があったためとされる。
(写真:京都法観寺の塔周辺)
『平安遺文』四七一〇、保衛二年(1136)、為義は左衛門の少尉を辞任する。経緯的にみて実質的には解官に近いと推測される。
同四七一三、保延五年(1139)、無官となった為義は高野山改革派で鳥羽上皇から尊崇を受けていた覚鑁(かくばん)に名簿を提出し、院の不快を蒙った事を語り、伺候と任官のための祈祷を嘆願した。
『古今著文集』巻十五、為義の次男義賢が保延五年(1139)に帯親王(後の近衛天皇)の東宮帯刀先生に任じられるが、翌保延六年二殺人犯に協力する失策を犯し罷免された。この当時、長男・義朝は無位無官で東国へ下向していたため、次男・義賢が後継者の地位にあったと考えられている。
源義頼・義家親子から清和源氏の庶流河内源氏は苦労をしつつ武門の名蹟を築いてきたが、為義の代になり衰退への道をたどっていくことになった。 ―続く