河内源氏の棟梁となった源義家は永保三年(1083)に陸奥守に就き、その年の秋に清原氏の内紛に介入して後三年の役が始まる。朝廷は、寛治元年(1087)には「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定し、事実上「即刻停戦」を指示した。『後二条師通記』には、「義家合戦」として私戦をにおわせる記述が残されている。
寛治元年(1087)十一月に後三年の役で清原武衡・清原家衡を破り勝利たし義家は、朝廷に追加官符を要請するが、朝廷はこの合戦に追加官符を下さず、「私戦」として恩賞を与えられなかった。しかも翌寛治二年(1088)正月には、義家を陸奥守から罷免させている。義家は後三年の役の間の陸奥守に定められた官物の貢物を帯っていたとされることが『中右記』永長元年十二月十五日条、永長二年(1097)二月二十五日条に記されており、白河上皇、朝廷から催促されている。当時、国司に定められた官物を納めて受領功過程に合格しなければ、新たな官職に就くことが出来ない法制度が備わっていたため、義家は官位も据え置かれ、新たな官職に就く事は出来なかった。
源義家はその後、自身の郎党・藤原実清と弟義綱の郎党・藤原則清が河内の所領にて所領の領有権争いを起こし兄弟の間で兵を構える事件などを起こす。弟義綱の台頭が始まり寛治七年(1093)陸奥の守に就き、翌嘉保元年(1094)には従四位上に叙され、義家の官位を上回った。翌年には陸奥国よりも格上の美濃守に就くが、美濃国で比叡山延暦寺領荘園との争いで僧侶が死ぬ事件が起こった。比叡山は義綱の配流を要求する強訴に出る。しかし、関白・藤原師通は大和源氏の源頼治と義綱に比叡山に対し実力行使の発令を出した。比叡山延暦寺・日吉大社の大衆・神人に死傷者が出てしまう。比叡山は朝廷を呪咀し、四年後の承徳三年(1099)六月に実力行使を発令した藤原師通が三十八歳で急死した。朝廷は比叡山の呪咀を恐れ、この件の影響であるかは定かではないが、その後の義綱には受領を任じられることはなかった。
義家は後三年の役から十年後の承徳二年(1098)正月に陸奥守時の官物の滞納を完済し、白河法皇の意向もあり、受領過程を通った事で正四位下に昇進。同年十月には昇殿を許されている。弘和三年(1101)、義家の次男(長男義宗は早去)で嫡男河内源氏三代目棟梁・源義親が対馬守に任じられたが、九州で略奪を働き、官使を殺害したため隠岐国に配流された。そして義親は、再び出雲国に渡り官使を殺害のした上、官物を略奪する。追討使に伊勢平氏の平正盛が任ぜられ、嘉承三年(1108)正月に誅され、梟首された。義家はこの間の嘉承元年七月四日に亡くなっている。この義親が河内源氏三代目棟梁とされるが、現在では三男・義忠が河内守、四男・義国が加賀守として叙任されているため、それに劣る対馬守になっている事から、義忠がすでに後継者としての位置にあったとも考えられている。
四代河内源氏棟梁の継承はには三男義忠と四男義国の間で検討された。義国は河内源氏伝領の摂関家領上野国八幡荘を相続しており、足利氏・新田氏の祖とされる。嘉承元年に義国は父義家の弟で、叔父である甲斐源氏の祖・源義光と抗争を起こし、乱暴狼藉を働くなど時代の趨勢(すうせい)に会わないと父・義家から後継者から外されていったとされる。河内源氏四代目棟梁として三男義忠が継承した。施政は白河上皇が院政を行い、摂関家と深い関係であった河内源氏から伊勢平氏を登用するしたため河内源氏の衰退期を迎えることになる。義忠は、若年ながら河内源氏の衰退を防ぐために検非違使及び摂関家の警護、僧兵の京への乱入を防ぐなどの活動を行う。また、新興勢力であった伊勢平氏との折り合いをつけるため平正盛の娘を妻に娶り、平家との和合を計る。妻の弟で嫡男の烏帽子親となり「忠」の一字を与え「平忠盛」(平清盛の父)と名乗らせるなどの親密な関係を築いた。そして、院政にも参画し、また従来の摂関家との関係も維持すべく遂力する。その結果「天下栄名」と評せられる存在となった。しかし、伊勢平氏との対等な関係を結んだことや、和合により院政に接近して勢力を伸ばす事など公卿や貴族、また源氏一族内でも不満や不平を買い、一族内で義忠にとって変わろうとする勢力も存在した。
『尊卑分脈』では、天仁二年(1109)二月三日、義忠は叔父・源義光の長男・義業の妻の兄にあたる加島三郎との斬り合いにより重傷を負う。その二日後に義忠は二十七歳で死去している。加島三郎は源義光の弟である園城寺の僧侶・快誉のもとに逃れて保護を求めるが、快誉によって殺害された。当初、義忠の暗殺は従弟の源義明(義家の弟・義綱の子)と、その家人藤原季方の犯行とされたため義忠の甥・源為義(源義親の子)は義綱一族を甲賀山で攻めて、義綱の子は自決し、また、義綱も捕らえられ佐渡に流された。しかしその後、義光の犯行であることが発覚し、源義光は常陸に逃亡する。義光は大治二年(1127)十月二十日に死去しており、義光は義忠の権勢が高まる事に不満を抱き、自らが河内源氏の棟梁になる事を望み家人の加島三郎に義忠を襲わせた。この『尊卑分脈』での真相は定かではない。
河内源氏は義忠、義綱の二大勢力である二人を失い、京には、後見人も少なき為義だけが残された。伊勢平氏は、同族内において結束を固めて行き、平忠盛、清盛と栄華を築くが、河内源氏は、その後も一族内での抗争が続きく。
源義家が後三年の役で従軍した坂東の諸氏に恩賞を与え、主従関係を構築したことが、後の義朝が上総の御曹司と呼ばれ、坂東の主と称され、そして頼朝の挙兵に繋がり、鎌倉幕府創立と続くのであるが。まだもう少し坂東の歴史、坂東の諸氏と保元・平治の乱を見て行かなければ、鎌倉幕府の創立と真意を理解することは難しい。 ―続く