長元の乱を起こした平忠常は、従五位以下、上総介、武蔵国押領使の官位を受けていた。三年に及んだ長元の乱は房総三カ国(下総国、上総国、安房国)に大きな被害を与え、忠常の軍も疲弊し、長元四年(1031)に下野国の藤原兼光を通して降伏する。その後、源頼信に京に搬送されるが、途中美濃国にて病死し、首を斬られて京で梟首された。その後、首は親族に返され、子の常将は罪を許された。下総国に戻った常将は、千葉郡千葉荘に本拠を置きた。千葉介と号し、『千葉大系図』において常将を千葉氏の初代当主と見做(みな)す事が多い。また、次男常兼も初代とする考察もある。しかし記録上確認できるものは源義朝時の常兼の三男・千葉常重もしくは源頼朝挙兵時に従った千葉常胤である。
万寿元年(1024)に平常将の子として常長が生まれる。平忠常を降伏させた源頼信の子・頼義が永承六年(1051)の奥州赴任から康平五年(1062)の間、陸奥国で半独立的な勢力を形成していた有力豪族の安部氏の滅亡までの前九年の役。そして頼義の子・義家が前九年の役後、奥州を支配していた清原氏の内紛により後三年の役が始まる。この役で清原氏が消滅し、奥州藤原氏の台頭するきっかけとなった。両役に平常長は従軍し戦功を立てたとされ、この前九年の役にて従五位下、下総権介、武蔵押領使の官位を受けたと考えられる。平常長は戦後、上総国大椎に館を構えて、さらに下総国千葉郷に進出して千葉大夫と号した。常長の子・常家は下総国香取郡阪村に因んで坂(佐賀)太郎と号し、上総権介を継承するが嗣子亡くし没したため、五弟の常晴(相馬五郎)が養子として上総氏の家督を継承した。上総氏の初代当主として常晴と見做すことが多い。常晴は実子・常澄と折り合いが悪く、大治元年(1124)に亡くなった兄の千葉常兼の三男常重を養子に迎えて、大治三年(1130)に常晴より下総権介・相馬郡司の家督を譲られた。父常兼の千葉郡と相馬郡の両群を支配し、この事が房総平氏間の抗争の遠因とされる。
少し、話を戻すが、河内源氏の祖・頼信とその子頼義が長元の乱で平忠常を降伏させ、長元九年(1036)に相模守に任じられ、源頼義は清和源氏の河内源氏二代棟梁で武勇に優れ、弓の名手として謳われた。元相模守で桓武平氏の嫡流筋であり、長元の乱では源頼信より先に追討使に任じられていた平直方に武勇と弓の名手として感じ入れられ、直方の娘の婿になり八幡太郎義家が生まれた。直方は大蔵邸と所領地を頼義に譲り渡し、直方の娘とは八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の三人の子息に恵まれた。鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となり、由比若宮は源氏の氏神となった。
康平六年(1063)二月十六日、前九年の役で頼義は、安倍貞任・経清・重任の首を掲げて京へ凱旋する。京では遠く夷敵の地で戦い続けた老将軍と官軍の勇姿を一目見ようと物見の民衆で溢れたという。同年二月二十五日、除目が行われ、頼義は朝廷より正四位下、伊予守に任じられる事となった。当時の伊予国は「熟国(温国)」とされ、播磨国と並び全国で最も収益がよいと知られていた。鎮圧に十二年もの歳月がかかったが、この「公卿一歩手前」という恩賞を見る限り、頼義のその功績は大という評価を朝廷から受けたと考えられる。この他、嫡男・義家も従五位下出羽守に任じられ受領となり、次男・義綱は右衛門尉に取り立てられた。しかし、「四位上﨟」たる伊予守に昇進した頼義であったが、未だ恩賞を手にしていない坂東の諸兵の為に都へ留まり、彼らの恩賞獲得に奔走している。結局、実際に伊予へ赴任したのは二年後で、その間に滞納していた二年分の官物は私費をもって納入したと言われている。また、後三年の役は朝廷から源義家の私戦とされ、坂東の従者への恩賞は、義家の私財から与えられた。これらの恩賞を行った事が河内源氏の坂東での信頼と強固な主従関係を構築する布石となったと考える。
源頼義と義家親子が康平六年(1063)八月、前九年の役で奥州平定後、戦勝のお礼の為、この地、鎌倉の由比郷鶴岡に石清水八幡宮を勧請し社殿を建立したのが由比若宮であった。鶴岡八幡宮が現在地に遷祀されてから元八幡と呼ばれ、永保元年(1081)、後三年の役で奥州へ出陣する際に由比若宮に参詣し、社殿の修復をしたと伝えられている。境内には義家が旗を立て戦勝祈願したと伝えられる「旗立の松」が置かれている。治承四年(1180)、挙兵し、鎌倉入りした源頼朝は、由比若宮を小林郷の北山(現在地)に移し、新しく鶴岡八幡宮を造営した。その後、由比若宮は元八幡とも呼ばれるようになった。頼朝の五代前の先祖が頼義である。 ―続く