『今昔物語』巻第二十五、第九「源頼信朝臣、平忠常恒を責めたる語」において、平忠常を忠恒と記しており、現代語訳に直した。
「今昔、河内の守源頼信朝臣という者がいた。これは摂津多田の源満仲入道という兵(つわもの)の三男である。兵の道について聊(いささか)も心もとない事はなく、朝廷も頼信に高貴な身分を与え、そうする事で世の人々も畏怖の念を抱いた。頼信が常陸守に就き、この国に下る間、下総国の平忠恒という兵(つわもの)がいた。勢力が極めて大きく、上総、下総を皆我が物とし、租税や労役に応じず、常陸守の仰せも、事に触れて軽視していた。常陸守の任を受けた頼信は、これを咎めて下総の忠恒を攻めこもうと考えたが、この国の左衛門大夫平惟基(平繁盛の子で維幹と同一人物)がこの事を聞き頼信に進言した。
「忠恒は勢力ある者で、また住家は、たやすく人を寄せない所にあります。少々の軍勢では攻め落とすことは出来ません。軍兵を多く集めてこそ成し遂げられます」。
頼信はこれを聞き、「そうは言へとも、このままじっとしているわけには行かない」と言って、構わず、下総に向かって出陣した。惟基は三千騎を整えて鹿島の御社に出向いて来た。
鹿島の白く広き浜の二十町(約二キロメートル)程が、朝になれば弓という弓が朝日にきらめき見えた。頼信直属の兵と在地豪族の兵たち合わせ二千人であった。子島の郡(不祥)の西の浜辺を打ち立火の見は見えずきらめく弓の様に見えて雲の如く見えた。人々は、世に言い伝えで聞くが、実際にこれほどの多くの軍勢を見たことが無かった。
衣河(きぬがわ・今の鬼怒川で、ここでは下流の利根川のこと)の河口は海の如し、鹿島は、梶取(かんどり:香取)の渡しの対岸で顔が見えないほど遠く、忠常の住家は内海の遥かに入り込んだ向かいにあった。 そのために攻めるには、この入海の岸を廻回して行けば七日はかかる。真直ぐ海を渡れば今日の内に攻めることが出来る。忠恒はこのあたりの有力者であったので、この地の舟を全て隠してしまっていた。渡るべく様も無く浜辺に軍兵が皆打ち立って「廻るしかない」と思っていたところ、頼信は、大中臣成平(伝未詳、平安中期、大中臣氏は香取神社の宮司を勤めた豪族)と伝者を呼び小舟に乗せて忠恒のもとに遣わした。
「降伏勧告を受け入れて戦意が無いとみて取れたならすぐに帰って来い。勧告を受け入れない場合は、帰ってこられまい。」成平はこれをうけたまわり小舟に乗って行った。惟基は馬より下りて、頼信の馬の口を取ると、それを見た軍兵は、ばらばらと馬より下りた。その様子は風が草をなびかす様であり、馬から降りる音は風が吹く音の様であった。
(写真:ウィキペディアより引用 鬼怒川)
成平は忠恒が頼信の返事を申し受けるために舟を川下に向けた。「守殿は、立派な方でおられる。だから当然、降伏すべきところでありますが、惟基は先祖以来の仇であります。そやつがいる前で馬を降り、ひざまずくなどということは絶対にでき申さぬ」と、また忠恒は言い放った。
「渡しの舟が無い以上、どうして一人で参られようか」と言う事で、成平は舟を川下に向けた。
頼信はこれを見て、
「この湖の岸を迂回して攻め寄せたなら、日数がかかろう。そうなれば、敵は逃げてしまうか、または防御態勢を講ずるだろう。今日の内に寄せて攻撃を加えてこそ、忠恒は不意を打たれて狼狽するに違いない。それにしても、船をみな隠しておる。どうしたらよかろう」と、多くの軍兵に問いかけると、軍兵たちは、
「他に良い方法がないのでしたら、迂回して攻め寄せるべきでしょう」と答えた。
「この頼信が坂東を見たのは、今度が初めてだ。それゆえ、道の案内は知るはずもない。だが、家の伝えで聞いておることがある。それは、「この湖には浅い道が堤のように一丈(いちじょう、約三メートル)ほどの幅で一直線に続いており、深さは馬の太腹に水がつくぐらいだ」ということだ。その道はおそらく、このあたりにあるはずだ。この軍勢の中には必ずや、その道を知っておる者がおろう。されば、その者が先頭に立って渡れ。頼信は、それに続いて渡ろう」。
(写真:ウィキペディアより引用 香取神社 鹿島神宮)
真髪高文(まかみのたかふみ:伝未詳)という者が、
「それは、私がたびたび渡ったことのある道です。馬でご案内いたしましょう」
と言って、葦を一束、従者に持たせて湖の中に乗り入れ、後ろの方に葦を突き刺し、突き刺し渡って行くと、他の軍兵たちもこれを見ながら、渡った。途中、泳ぐところが二か所あったが。軍兵たち、五六百人ほどが渡ると、頼信も後に続いて渡った。
信頼の多くの軍兵の中でも、この道を知っているのは、たった三人ほどで、その他は、誰一人と知る者もなかった。「常陸守殿はこの度初めてこの地を見られ、それなのに我等でも知らぬ事をどうしてご存知なのだろう。やはり優れた武将であるな」と、みな思い、畏怖の念を抱いた。忠常は、
「常陸守殿は湖岸を迂回して攻めて来られよう。だが、船は取り隠してあるので、渡っては来られまい。また、この浅い道は恐らくは知っておられまい。わしだけしか知らぬはずだ。湖岸を迂回して来るのには日数がかかるから、その間に逃げてしまえば、攻めることはおできになれまい」と、静かに構えて、軍備を整えていると、家の周囲に配置しておいた郎等が馬を走らせて来て、
(写真:ウィキペディアより引用 香取神社式年神幸祭
「常陸守殿は、この湖の中にある浅い道から大軍を率い、すでに渡って来ておられますぞ。なんとなされます」と、訛り強い声を張り上げ、あわてふためいて注進した。忠恒は、予想が覆され、「ついに攻め込まれてしまったか。もはやどうしようもならぬ。もう、なす術はない。降伏しよう」
と言い、直ちに名符(みょうぶ)を書いて文差しに差し(貴人に書状を差し出すのに用いた杖)、謝罪文を添えて郎等に持たせ、小船に乗せて出迎えさせた。頼信はこれを見て、名符を取って来させ、
「かように名符に謝罪状を添えて差し出したからは、すでに降伏したのだ。それをしいて攻撃すべきではない」と言い、「この名符を取って、すぐ引き上げるべきだ」と言って、馬を返したので、全軍引き返した。それ以来、人々は、この頼信をこの上ない優れた武人だと知り、いよいよ畏怖するようになる。この源頼信の子孫は、高貴な武人として朝廷に仕え、今も栄えていると、こう語り伝えた。」
この源頼信伽藍を平定したことにより、坂東平氏が頼信の配下に入り、河内源氏が東国で勢力を拡大する契機となった。
―続く