坂東武士と鎌倉散策 鎌倉幕府 四、上総介平忠常と源頼信 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 東国の武士団は、西国、畿内の武士に比べ自らが土地を開拓・開墾してきた時期が遅く。京都より遠方にあるため、国司と郡司に任命された地方豪族との関係性により地方行政に影響を与えた。また自ら開墾した所領に対しての執着は強く、その土地を守るための自主独立の気配が色濃く残っていた。そのため地方豪族の同族等が武士団を形成し、争乱による弱肉強食的な解決方法を行いつつも姻戚関係を持ちながら、互いの紛争を避けるように努めた。また恩賞に与るため、長元元年(1028)の長元の乱(平忠常の乱)、永承六年(1051)の前九年の役、永保三年(1083)後三年の役がそうであるように軍事貴族である貞盛流桓武平氏、河内源氏、の追討使による討伐が行われる。その軍事力として用いられたものが、東国、坂東の武士団である。彼らは、主従関係の構築を行い、特に河内源氏の祖・源頼信、子の頼義、孫の頼家の配下に坂東平氏の多くが配下に入り従軍することになった。そして恩賞が与えられた。河内源氏が東国で勢力を広げる契機となり、そのことは西国が、東国を支配すると言う体制を作り上げていくことにも繋がっていく。

 

 所領を開墾し拡大する地方豪族化した武士達は、国司との関係が悪化してゆくことになり、両者において紛争が起こることになる。この時期で地方豪族化した武士を顕著に示すことが出来るのが上総国での上総氏である。平良文孫で房総平氏の祖とされる平忠常が祖父・良文、父・忠頼の後を継ぎ、常陸国、上総国、下総にも広大な所領を有し房総平氏の強大な勢力を拡大させて、下総国、常陸国と同じく大国で「新王任国」のため国司は親王が就くが、遥任(ようにん:任地に赴かない)するため、平忠常が上総介に就く。しかし忠常は、国司の命にも従わず租税も納めなかったとされ、長和五年(1016)以前から忠常は常陸の左衛門惟基(平惟幹か:貞盛流桓武平氏、養父平貞盛とも)と利権をめぐり抗争していた。長元元年(1028)六月、忠常は安房守の平惟忠を焼き殺す事件が発生した。原因は定かではないが受領との対立によるものとされる。朝廷は追討使として平直方と中原成道を任命するが、出立は任命の四十日後と遅く、同年八月に上総に下向した。成道は討伐に向かう際、美濃国で母の病気を理由に帯陣し、討伐に消極的だった事が窺える。直方と成道は討伐についての意見の違等から乱の鎮圧は遅れた。長元二年(1029)に朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国への忠常追討の官符を下し討伐軍の補強を行うが、鎮定は進まず、同年十二月には、中原成道が朝廷への報告を怠った事から解任されてしまった。

 

 長元三年(1030)三月には平忠常は安房国の国衙を襲撃し、安房守藤原光業を追放する。忠常は上総国夷隅郡の要害に立て籠もり強固な抵抗を続けた。そして平直方も解任されて、甲斐守であった源頼信が追討使に変わり派遣されている。頼信は勇散な軍事貴族として名をはせていた。源信頼が以前に常陸介であった頃に忠常は頼信に仕えていたともされる。

『今昔物語』巻第二十五、第九「源頼信朝臣、平忠常責めたる語」において、

「守殿は、立派な方でおられる。だから当然、降伏すべきところでありますが、惟基は先祖以来の仇であります。そやつがいる前で馬を降り、ひざまずくなどということは絶対にでき申さぬ」とあり、「先祖以来の仇」と語る事から平将門の天慶の乱後の平良文流平氏と貞盛流平氏の私戦とする見方もある。しかし『今昔物語』は説話集のため、史的根拠とすることは難しく、概要の参考程度に示される。長元四年(1031)、三年に及ぶ乱により房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、忠常の軍勢は疲弊し、下野国の藤原兼光を通して降伏の意を示し、その後源頼信に京へ搬送されるが、その途中病死し、斬首され京で梟首された。その後、首は親族に返され、子の常将や常近は罪を許されている。

 

この源頼信が長元の乱を平定したことにより、坂東平氏が頼信の配下に入り、河内源氏が東国で勢力を拡大する契機となった。 ―続く