桓武天皇の子である葛原親王の第三皇子・高見王の子・高望王が「民部卿宗章朝臣」の叛乱を征し、宇多天皇の勅名により臣籍降下し、平朝臣を賜った。これが高望流桓武平氏であり、桓武平氏や嵯峨源氏の者等が国司として地方行政の職に就き東国に向かう。桓武平氏の高望王は、昌泰元年(898)に上総介に任官した。
古代日本の地方官制には、国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏たちを指し、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)たちのことである。守の唐名は刺史、太守など。大国、上国の守は中央では中級貴族に位置する。任期は六年(後に四年)であり、国司たちは国衙において政務に当たり、祭祇・行政・司法・軍事のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられた。国司たちは、その国内の各郡の官吏(郡司)へ指示を行なう。郡司は中央官僚ではなく、在地の有力者、いわゆる地方豪族が任命されていた。国司の任期中、円滑に任務を遂行するためには、その地をよく知るその地の豪族が頼みでもあった。
(写真:ウィキペディアより引用 桓武天皇)
当時は、上級貴族は国氏に付きながら遥任(ようにん:任地に赴かない)することも多かったが、平高望は官位が従五位以下の身分であったため長男・国香、次男・良兼、三男・良将を伴い任地に赴く。高望親子は任期が過ぎてもその地に留まり、国香は前常陸大掾の源護(嵯峨源氏)の娘を、良将は下総相馬郡の犬養春枝の娘を娶り在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発した。彼ら自ら開発・生産者となり勢力の拡大と、その利権を護るために武士団を形成して高望王流桓武平氏の基盤を強化していく。その後、高望は延喜二年(902)に西海道の国司となり大宰府に居住延喜十一年(911)に同地で没している。
天慶二年(940)、天慶の乱の経緯には諸説あるが、従四位下鎮守府将軍良将の嫡男で、良将・将門の所領上総国花園村を伯父国香が襲撃した事から始まり、一族内の所領略奪の契機から、将門と国香、源護、良兼、国香の子貞盛らに継がれていく東国の戦乱であった。将門の戦死により乱も終結するが、勝者である貞盛は、京での任官を求め、東国から伊勢国に移り、伊勢平氏の祖となっている。
高望王の三男・平良文は、国香、良兼とは側室の子であり、高望王と共に東国への下向に従っていなかった。しかし延長元年(923)、良文三十六歳の時、醍醐天皇から「相模国の賊討伐」勅名を受けて東国に下向している。賊討伐後には、武蔵国熊谷豪村岡(埼玉県熊谷市村岡)、相模国鎌倉郡村岡(神奈川県藤沢市村岡)に移り本拠にしたとされ、下総国結城郡村岡(茨木県下妻市)に所領を有し、千葉県東庄町の大友城、同香取氏にも居館があったとされる。天慶の乱では、『大法師浄蔵伝』所引『外気日記』天慶三年二月二十五日条に、平将門の敗死の第一報を都に伝えており、良文が藤原秀郷、平貞盛に加わっていたとされるが、『将門紀』には良文の記述はなく千葉神社の碑文では平国香らが染谷川で将門を襲撃した際伯父の良文が将門を援護し両者が逆襲したとしている。また、三男・忠頼は平将門の娘・椿姫を正室とし、将門に従軍した。平良文は記録上では将門の旧領である下総国相馬郡を与えられており、私見であるが、良文自身は、朝廷には中立的立場をとりながら将門に後援していたのではないかと考える。
平良文の長男・忠輔は早世。三男・忠頼は、千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏の祖であり、その子・忠常は、平忠常の乱を起こし源頼信に征討されるが、房総平氏、千葉氏の祖となった。忠常の弟・将恒(別名将常・将経)は坂東平氏秩父氏の祖。忠常の子・常長は、前九年・後三年の役で源頼義頼家親子に従い戦功を立て戦後は上総国大椎に館を構え下総千葉郷に進出して千葉大夫と号した。その次男常兼が千葉氏、五男が上総氏の祖となる。忠頼の弟・忠光は良文―忠光―忠通は三浦氏始祖三代とされる、梶原氏、長江氏、鎌倉氏等を輩出させた。
平良文は、『今昔物語』巻第二十五 第三「源充と平良文と合戦せる語」にて、嵯峨源氏の箕田源次充(みつぐ)が東国の原野で相対峙した。両軍の主将相互には、意趣遺恨はなく、付き合いすらもなかったという。二人とも剛胆で、思慮にも富み、東国の武士たちの間では、弓馬に優れた武士とされていた。いずれが優れた武士なのか戦おうとするが、多くの兵による合戦を避け二人で決闘をする。馬上の両者は、相手に矢を先に射させようとするため、互いの馬は凄まじい勢いですれ違う。馬を取って返し、良文が先に矢を放つ。その矢は充の胸板に向かったが、落馬するのではないかと思われるほど体を横に倒し、矢は 達の股寄に当たった。次に充が矢を放つと良文も身をかわし太刀の腰当をかすめた。四度目に馬を馳せ合わそうとした時に良文が充に、
「互いに射るところの矢、みな外るるものにあらず。悉(ことごと)くもっとも中を射る矢也。しかれば、ともに手並みの程は見つ。手練の程、冴えたり。しかるに我等、昔より伝わる敵にあらず。今はかくて止みなん。ただ腕の程を挑むばかり也。互いにあながちに殺さんと思う可きにあらず」と言うと、充も破顔で一笑して答えた。
「我も、しか思う也。まことに互いに手並身のほどは見つ。されば戦は止みなん、よきこと也。さは引きて帰りなん」。両軍の勢はともに引き帰った。その後良文と充は無地の親友となったという。箕田源次充は渡辺党の祖として子孫には鬼退治で有名である渡辺綱等の名がある。
平安期の地方豪族や武士は他族との抗争だけでなく、一族内での所領の略奪が行われ、一層の武装強化が図られるが、婚姻関係などで他族との抗争を避けようとした。また、当時の地方豪族・武士の相続は、有力な子息に相続させることも多々あり、それにより同族間での紛争も絶える事が無かった。そして、子息及び娘にも相続が与えられており、特に当主の妻が、相続人として、また家政についても優遇すべきことが多かった。平安末期には相続による所領の配分で所領が縮小するのに対し、領地と勢力が弱まっていくことにも繋がっている。より一層の領地の安堵と獲得のための紛争、又は、恩賞にありつこうと奔走する。地方豪族の宗家の主人を頂点に家長・家人・家子の家族共同体を作り家産官僚制、官司請負制の特徴を持つ武士団が形成されていく。保元・平治の乱でその武士団が各勢力に付き恩賞を求めた。 ―続く